第59話

「あいつら、あんたの事、私の彼氏だって。バカみたい。男が迎えに来たからって、それが彼氏とは限らないのにねぇ」

「……お前が親に連絡するなってごねたからだろ。あと、飲み過ぎだ」

「別に酔ってないし」

「酔ってるよ」

「やめてくれる? 心配してるふりは、逆にイライラしてくるから」

「美穂」

「降ろしなさいよ、孝之」


 美穂の平手が、僕の背中を何度も叩き付けてくる。最初は堪えていたが、だんだんとそれが強みを増していったので、僕は仕方なく美穂の体を降ろした。


 美穂は足をアスファルトに降ろすと、ぱっと僕から離れた。その目が憎しみに限りなく近い色で僕を見ていて、それがとてつもなくつらかった。


「美穂。お前には本当にひどい事をしたし、残酷な事を言ったと今でも思ってる。お前は誰よりも俺の側にいてくれて、誰よりも俺の事を考えてくれてたのに……」

「だからなの?」


 美穂の口から、真っ白い息が大きく漏れた。


「だから私を、由佳子さんとダブらせて見てたって訳?」

「……」

「あんたにとって、私は由佳子さんの代用品だったのよね」

「美穂……」

「私はそれでもいいと思ってた。代わりでも何でもいいって、いつか本物になってみせるって思ってたもの。でもあんたは、私を永遠に偽物にしたじゃないの‼」


 美穂の言葉の一つ一つが痛かった。そこにわずかでも嘘があったなら僕は何も感じなくてすむのだが、美穂の言っている事は全て事実だ。紛れもない、僕達の過去だった。


「……何で、何で私がこんな目に遭わなきゃならないのよ‼」


 美穂が僕を見据えて叫んだ。


「普通に恋愛したかっただけなのに、普通にあんたを好きになっただけなのに、どうして私がこんな目に……!」

「美穂、本当にすまなかっ……」

「言わないで! 悪かったなんて、本当は思ってないくせに! 今でも由佳子さんの事しか考えてないくせに‼」

「それは違う!」

「違わないわ‼」


 大きく首を横に振りながら、美穂は僕の言葉の全てを否定した。


「あの二人さえいなきゃ良かったのよ。由佳子さんと康介さんさえ最初からいなきゃ、こんな事にはならなかった‼」

「二人を悪く言うな、美穂‼」


 僕はつかつかと美穂に近付き、彼女の腕を強く掴んだ。僕の力の強さに美穂は痛そうに顔をしかめたが、僕は決して離さなかった。


「俺の事はいくらでもなじってくれていい。でも、兄貴と由佳子さんの事は悪く言うな! あんなにお互いを愛し抜いた二人なんだぞ⁉」

「笑わせないでよ、一番そう願っていたのはあんたじゃない。康介さんさえいなくなればって、いつも思ってたのは孝之の方じゃない‼」


 美穂はその場で地団駄を繰り返し、僕に掴まれた腕を払おうと必死になっていた。それでも、僕は決して力を緩めない。ここで美穂の手を離したら彼女まで失ってしまいそうで、それがとても恐ろしかった。


「離しなさいよ……」


 ぜいぜいと息を切らしながら、美穂が言う。彼女の声はいつの間にか嗚咽混じりとなっていて、俯いた顔からぽたぽたと涙の雫がいくつも落ちていた。


「何よ、あの時は簡単に手を離したくせに。どうして今頃になって掴んでくるのよ。遅い、遅すぎるわ……!」

「分かってる、俺が全部悪いんだ」

「分かってない‼」


 美穂のこぶしが、僕の胸ぐらに突き刺さった。今までで一番重く、一番悲しい攻撃だった。


「……返してよ」


 美穂が言った。微かな声だが、僕にははっきりと聞こえた。


「返してよ、私の赤ちゃん。返してよ、私の人生……。全部、返してよぉ……‼」


 僕は美穂の体を強く抱き締めた。こんな事で許される訳がなかったが、抱き締めてやる以外に何もできない。僕は今の自分の無力さを呪い、過去の自分の過ちを憎んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る