第55話

翌日の診察で、僕は医者から退院の許可が下りた。


 その事を兄貴に伝えようと思って病室を訪れると、処方された鎮静剤のせいとはいえ、兄貴は朝日が昇るまで呑気に眠っていたらしく、検査があと二、三残っているので夕方まで病院に残るようにと看護師から説明を受けているところだった。


「もう大した事ないのにさ」


 そうぼやく兄貴を見て、由佳子さんはやっといつもの笑顔を取り戻してくれた。


「でも、本当に良かった。二人とも大した事なくて」


 由佳子さんはどうやら一晩中起きて兄貴を看ていたのだろう。昨日泣いた事も手伝ってか、両目はうっすらと赤いし、まぶたも腫れている。兄貴はそんな由佳子さんの顔をじっと見つめていたが、ふいに「……由佳子、悪かったな」と口を開いてきた。


「えっ⁉ どうしたの、コウちゃん……」

「本当に悪かった、ごめんな」


 ベッドの上で深々と頭を下げた後で、兄貴は由佳子さんをまっすぐ見据えながらさらに言った。


「由佳子、俺は大丈夫だから。どんな時でも、俺はお前の知っている俺のままだ。いつでも、それを信じていてくれないか?」

「コウちゃん……?」

「俺も信じてるから。由佳子の事……」


 真剣な表情でそう言う兄貴と由佳子さんの視線が重なる。そんな二人を見ていたら、昨夜から止まらずにずっと続いていた僕の胸の痛みが、ドクンと苦しみを伴うほど激しく波打った。


 この痛みの波音が二人に届いてしまうのではないかと思ったら、僕は急に怖くなった。二人にこの痛みを知られるのが、たまらなく嫌になったのだ。


「……あ~あ、二人の世界に突入ですか。残暑がお厳しい事で!」


 わざとおどけた大声を張り上げながら、僕は病室を出ようとする。すると何か言いたいことでもあったか、兄貴が「おい、孝之」と呼び止めてきた。


「お前にも、変に気を揉ませて本当に」

「じゃあな、兄貴。お先に退院、誠に失礼」


 僕は兄貴に最後まで言わせる事なく、肩越しにちらっと振り返りながら言葉を挟んだ。


「この借りは家に帰ってから、きっちり払ってもらうからな」


 兄貴は一瞬、何が何だか分からないといったふうにきょとんと僕を見ていたが、やがて僕の嫌味に気が付いたのか、「何だと、それはお互い様だろうが!」と、若干悔しそうにこぶしを軽く振り回しながら怒鳴り返してきた。


 僕達の子供じみた言葉のやりとりがよほどおもしろかったのか、由佳子さんは口元に両手を添えて吹き出していた。二人が僕の変化に気付いていない事に安心して、僕はさっさと病室を後にした。

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