第54話
美穂が帰って少し経った頃、僕はそっと個室から出て、ナースステーションで兄貴のいる病室の場所を聞いた。兄貴の病室は僕がいた個室と同じ階の、一番東の端にあると若い看護師がさらりと答えてくれたので、僕は教えられた通りに東へ向かってまっすぐに歩く。すると、廊下の突き当たりの所で一つの人影がぼんやりと力なく立っているのが見えた。
その人影は、由佳子さんだった。しかし、そのひどく沈んだ彼女の表情を見た僕は数分ほどためらった後で、ようやく勇気と声を振り絞った。
「……ゆ、由佳子さん」
僕の声に、由佳子さんはゆっくりとこちらに向かって顔を持ち上げた。
「孝之、君……?」
「由佳子さん。その、ごめん……」
「何が……?」
「兄貴とケンカなんかして……」
「孝之君、大した事なくて良かったわね……」
由佳子さんはうっすらと微笑んでくれたが、それは決して心の底からのものではないと感じた。どこか表面的で、まさに義理で言っているような……。
僕は、どうして由佳子さんがそんな言い方をするのかすぐに分かってしまった。
「ゆ、由佳子さん……!」
次の瞬間、由佳子さんの両目から大粒の涙が次々と溢れ出してきた。それと同時に彼女の体ががくがくと震え、僕にすがるようにそっと寄り添ってきた。
「怖かったの……」
「え?」
「気が付いたら、コウちゃんが私達の下敷きになってた。孝之君も、コウちゃんも全然動かなくて……。二人とも死んじゃったかと思って、とても怖かったのよ」
「何言ってんだよ、俺も兄貴も大丈夫だよ」
僕は由佳子さんを安心させようと、できるだけ優しい口調で話したが、彼女はまだ恐ろしいのか、顔を伏せたまま頭を何度も横に振った。
「コウちゃんがいなくなったら、私は生きていけないわ」
「バカな事を言うなよ、由佳子さん。そんな事、言っちゃダメだよ」
「本当よ。コウちゃんだけは、失いたくない」
由佳子さんはそう言った後、僕の胸の中でずっと泣き続けた。
僕は、由佳子さんの肩をそっと手を置く。その肩はずいぶん小さくて、いつのまに彼女はこんなに小さくなってしまったのだろうと思ったが、実際は僕の方がとっくに彼女の背を追い越していて、その身を抱き締められるくらいには大きくなっていた。
それなのに、僕の心の中は空虚な感じでいっぱいだったし、例の胸の痛みがまた始まった。
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