第51話

「……由佳子さんが、可哀想だろ」

「何?」


 肩越しに兄貴が振り返った。僕をきつい目付きでにらんでいる。その鋭さに一瞬たじろいだが、僕はさらに声を振り絞った。


「兄貴の言ってる事は、正しいよ。兄貴達は実習に来てるんだ。真面目にやらなきゃいけないんだろ、単位とかもあるだろうし……」

「お前にしては分かってるな」

「兄貴が今、あまり余裕がないのも何となく分かる。レポートだって大変そうだ」

「その通りだな」

「でも、それって兄貴だけじゃないだろ。由佳子さんだって、同じなんじゃないのか?」

「……」

「由佳子さんだって同じように余裕がなくて、不安だったり悩んだりしてるかも知れないだろ。それなのに、同じ立場である兄貴がどうして無視してんだよ。どうして、話の一つも聞いてやらないんだよ」

「何でそんな事、お前に言われなきゃならないんだ?」


 兄貴の口元が、明らかに僕をバカにしている笑みを浮かべた。やがてそれは少しずつ大きくなって、僕の中のいらだちをさらに助長させる。


「何がおかしいんだよ」


 それに耐えられずに僕が言うと、兄貴はふんと鼻を鳴らしてから答えた。


「ガキのくせに、言う事だけは一人前か」

「どういう意味だよ」

「俺達の事に首を突っ込むな。大体、お前には関係ないだろう」


 この言葉に、僕の堪忍袋の緒が切れた。今まで溜めるに溜め込んできた怒りが一気に爆発し、気が付くと僕は持っていたプリントの束を投げ捨て、自由になった両手で兄貴の襟元に掴みかかっていた。


 兄貴に抵抗する間も与えず、僕は踊り場の壁にその体を押し付けて怒鳴った。


「ふざけんな! 関係ないって何だよ、そんな訳ねえだろ‼」

「離せ、孝之‼」


 兄貴もプリントを手離し、両手のこぶしを使って振り払おうと力任せに抵抗してくるが、僕は決して離してやらなかった。頭の中は怒りだけでいっぱいだった。それが、僕の両手にこれまで出した事がないと思えるほどの強い力を込めさせていた。


「好き勝手な事ばかり言うな‼」


 僕はさらに怒鳴った。


「兄貴がバスケで怪我した時、誰が怒って、慰めてくれたんだよ⁉ 誰のおかげで高校最後の試合、後悔せずに迎える事ができたんだよ⁉ 見えなかったもの、見られなかったものが見えたのも誰のおかげだよ⁉ ただの同級生だったはずの、由佳子さんだろ‼」

「離せって言ってるだろ!」

「自分が苦しい時は何度も助けてもらったくせに、何で由佳子さんを寂しがらせんだよ⁉ それでも男か、好きな女泣かせやがって‼」

「それがお前には関係ないって言ってるんだ‼」

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