第50話

「おい、兄貴」

「学校では兄貴と呼ぶな。『緒形先生』って呼べ」


 兄貴は背中を向けたまま、威圧的にそう言った。僕はむっとしながらも、兄貴の横についていく。


「何だよ、手伝うって言ってるだろ。そっちよこせよ」

「いい。大した重さじゃないし、教室もすぐそこだ。お前に手伝ってもらうまでもない」

「いいから、貸せって!」


 僕は強引に兄貴の左手からプリントの束を奪い取る。すると一気にずしっとした負担が肩までやってきたが何とか堪え、そのまま兄貴をにらみ付ける。兄貴は少し驚いた顔をしていたが、やがてふっと溜め息を漏らして、「好きにしろ」と小さく言った。


 僕と兄貴はしばらく黙ったまま、肩を並べて歩いていた。


 兄貴と同じ校舎の中を歩くなんて何年ぶりだろう。ちらりと横目で見ると、五歳という年齢差が僕の学生服と兄貴のスーツ姿でしっかりと表れていた。


 兄貴は前方を見据えながら、無表情で歩いていた。先ほどの僕の強引さに怒っているのか、それとももう何とも思っていないのか。どちらにしても、僕は話をしなければならないと思った。


「あに……いや、緒形先生」


 僕は言った。


「最近、由佳子さんとは何か……」

「西崎先生か。他の生徒にも似たような事をよく聞かれるが、特に何もない」


 兄貴が即答で答えるものだから、僕は少なからずショックを覚えた。何だよ、『西崎先生』って。『何もない』って何だよ……。


「またまた~、照れちゃって」


 何とか今の気持ちを紛らわそうと、僕はわざと茶化すような口調で続ける。


「つまんないっての、答え方真面目過ぎ。付き合ってるんだから、こういう時は素直に言えって」

「俺は、いたって素直だ」


 兄貴は淡々と答える。


「俺も西崎先生も、今が一番大事な時期なんだ。きちんと教員免許を取って、採用試験に受かるまでは少し距離を置いた方がいい。近くに居すぎると、お互いの邪魔になりかねない」

「邪魔……?」

「ああ、俺達はここへ遊びに来てるんじゃないんだ。いつものようにという訳にはいかないだろ」


 僕達の足は階段へと差しかかった。一年の教室はここより階下にある。兄貴の体が僕より一歩前に進み、階段をゆっくり降りていく。同じように後をついていく僕は兄貴の背中に向かって言った。

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