第48話
僕が高校生活二度目の夏休みを迎えた頃、兄貴と由佳子さんは教育実習の最終準備に追われだした。
約一ヵ月の実習が九月に行われると知った。二人が実習生として僕と同じ学校に通うだなんて、何だかとても不思議な事のように感じられた。
しかし、兄貴はよっぽど緊張しているのか、夏休みの間中、ずっと自分の部屋にこもって教師の真似事をしてみたり、図書館から借りてきた心理学の本を片っ端から読んでいたりとあまり余裕がない様子で、そんな兄貴を心配した由佳子さんから電話で呼び出されたのは、八月も中旬に差しかかった頃だった。
近所にある喫茶店の前で待ち合わせ、カウンター席に座ってすぐにお互いアイスコーヒーを注文する。店員が「少々お待ち下さいませ」と気持ちのいい笑みを浮かべてからカウンターへと戻っていくのを見計らったタイミングで、由佳子さんが「ごめんね」と口を開いた。
「せっかくの夏休みなのに、変な電話しちゃって」
「そんな事ないよ」
「……コウちゃん、最近どう?」
「え? 兄貴と会ってないの?」
「うん。夏休みに入ってからは全然。LINEの返事はしてくれるんだけど、いつも素っ気なくて」
「何やってんだか、兄貴の奴」
僕は四年前の事を思い出していた。
今の兄貴は、自分のバスケを取り戻そうとする事のみ考えていた高校時代と大して変わらない。そのせいで、口もきいてもらえなかった由佳子さんがどんな思いでいたか。しかも、今はただのクラスメイトだったあの時と違って、恋人という名の確かな絆で結ばれている。由佳子さんの不安は、あの時とは比べものにならないはずだ。
「真面目にも程があるだろ」
イライラしながら言ったので、変声期をとっくに終えてしっかり低くなっていた僕の声は、ますます野太く響いた。
「全く何を考えてんだよ、兄貴は。由佳子さんみたいないい彼女をほったらかしにするなんて!」
「怒らないで、孝之君。コウちゃん、必死なのよ。自分の夢を叶えたがってるの。だから不安な要素は少しでも取り除いておきたいんだと思う」
「だからって……!」
「私もそうなの。コウちゃんと一緒に夢を叶えたいと思ってる。コウちゃんと一緒に、同じ道を歩んでいきたいの」
そう言って僕を宥める由佳子さんの瞳は、とても美しく清らかに澄んでいた。
このような瞳をまっすぐに向けてそう言い切るのだから、彼女の言葉に寸分の偽りもないだろう。しかし、高校生だった僕には、どうしてもこの現実が納得できなかった。
「由佳子さん……」
僕はつぶやくように言った。
「どうしてそんなに、兄貴の事を?」
「どうしてって?」
「嫌いにならないの?」
「何故?」
「……」
「コウちゃんはいい人よ、少し不器用なだけで」
そう言って、由佳子さんは笑った。
「だから私は、コウちゃんが大切なの」
また、僕の胸の中で痛みが走った。
今度の痛みは由佳子さんと別れて家に戻り、兄貴を横目でにらみ付けながらの夕食を済ませ、およそ三時間後に眠りにつくまで、ずっと疼き続けていた。
僕はそれがどうしようもなく悔しくて、ベッドの中で唇を強く噛み締めていた。
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