第46話
「……孝之か? いいぞ」
わりと穏やかな感じの声でお許しが出たので、僕は遠慮なく兄貴の部屋に入った。
トロフィーや賞状がなくなった兄貴の部屋には、代わりに大学で使う参考書やレポート用紙などでいっぱいになった。うっかりつまずいたりしてそれらを崩してしまうと、兄貴はひどい剣幕で怒るので、この部屋で行動する時は細心の注意を払う必要がある。
僕は一歩一歩を爪先から踏み出すようにして、机の前でパソコンのキーボードを叩いている兄貴に近付いた。
「レポート、まだ仕上がんないの?」
「もう少しってところだな。で、何か用か?」
「由佳子さんがクッキー焼いたってさ。食うだろ」
「食う、昼飯軽く済ませたから腹減ったわ」
そう言いながら振り向いた兄貴は、にかっとした笑みを見せた。
着替えを済ませ、兄貴と一緒に階下へ降りると、食卓の上には皿いっぱいに盛られた様々な形のクッキーがあった。由佳子さんは台所の流し台でボウルなどの調理道具をていねいに洗っていたが、僕達に気付くと舌先をペロッと突き出しながら「作り過ぎちゃった」などと言ってきた。
「平気だよ」
そんな由佳子さんに近付き、その華奢な肩をぽんと叩きながら兄貴が答えた。
「余ったら、俺が夜食に全部もらう。孝之には食わせない」
「何でだよ、嫌らしいな」
「これ以上でかくなったら、俺の身長越されるかもしれないからな。兄貴としての威厳を守る為だ」
「みみっちい事言うなよ」
僕が言うと、兄貴はくすくすと笑いながらクッキーを一枚手に取ってかじった。ゆっくりと味わうように噛み締める兄貴の顔は実に満足そうだったので、僕も一枚取って口の中に入れる。とてもおいしかった。
思わず「うまい!」と小さく叫ぶと、由佳子さんはほうっと息を吐いて安心したように笑った。
帰り際、由佳子さんは小さな紙袋にクッキーを何枚か詰めて、僕にそっと手渡した。
「これ、美穂ちゃんの分。よかったら渡しておいてくれる?」
「美穂の分も? 分かった、ありがとう」
「ううん、これくらい何でもないわ。最近、美穂ちゃんに全然会ってないから、寂しくて。忘れられてないかなあ」
「そんな訳ない。美穂だって由佳子さんに会いたがってるよ。由佳子さんと同じ事言ってさ」
「え?」
「『由佳子さん、私の事忘れてないかな?』だってさ」
僕がそう言うと、由佳子さんは首を横に振る事でそれを否定した。
レポートがまだ仕上がっていない兄貴は、由佳子さんを玄関の前で見送ろうとしていた。
二人きりにしてやろうと思った僕は、開けっぱなしの玄関を閉めようとノブに手をかける。その時、兄貴の両手が由佳子さんの体を包み込むように引き寄せ、自分の胸元に優しく押し当てているのが見えた。
「コウちゃん……」
幸福そうに笑う由佳子さんの両手がゆっくりと兄貴の背中に回り、愛しそうに抱き締める。その瞬間、僕の胸の中でまた痛みが走った。
これまでの四年間、何度か二人が身を寄せ合っている姿を見かけたが、その度に必ずと言っていいほど胸が痛んだ。
そして年を重ねるごとに少しずつ痛みは確実に大きく広がり、いつのまにか動揺という名の感情に変わっていた。
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