第42話

「ダメ?」


 由佳子さんはもう一度言った。


「コウちゃん、ダメ?」

「……」

「コウちゃん」

「……まだ、慣れない」

「え?」

「由佳子からそんなふうに呼ばれるの、まだ慣れない。恥ずかしい」


 そう言って、兄貴はそっと片手を伸ばして由佳子さんの頭を抱えるように引き寄せると、自分の肩口にふわりと押し当てた。肩に押し当てられた由佳子さんの顔は見えなかったが、兄貴の方はさっきの僕同様に真っ赤だった。きっとそんな顔を彼女に見られたくなかったのだろう。


 僕はこれ以上二人の姿を覗くのは悪いと思い、そっとドアから離れた。そして自分の部屋に入り、冷めかけた三杯の紅茶を一人で一気に飲み干す。葉を入れ過ぎたのか、苦味がきつくて後味が悪かった。


 でも、僕は嬉しかった。まるで自分の事のようで、嬉しかった。


 兄貴に好きな人が、恋人ができたのだ。それが由佳子さんのような女性なら、僕はいくらでも祝福できる。いくらでも喜べるし、何の文句も不平もない。ある訳がない。そのはずだった。


 ……ならば、どうして僕の胸に小さな痛みが発生し始めたのだろう。


 僕自身、何か悲しい訳でも、ましてや怒っている訳でもないのに。突発的に芽吹いたこの小さな痛みは、僕の胸の中にあぐらをかいて堂々と住み着いてしまった。


 僕はこの痛みの正体を知る術を得られないまま、何だかすっきりしない数年間を過ごす事となる……。

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