第40話

「西崎さん⁉」


 僕はすぐさま玄関の鍵を開けた。玄関が開かれると、そこに立っていた由佳子さんがふわりとした笑顔を見せながら「こんにちは」と言った。


「良かった、孝之君いたんだ。家族の誰もいなかったら、これどうしようかと思ってたの」


 由佳子さんの手には小さなビニール袋がぶら下がっていた。袋の口からひんやりとした空気がわずかに漏れている事から、中身はアイスクリームといったところだろうか。


「西崎さん、兄貴のお見舞いに来てくれたんですか?」

「ええ。私、クラス委員だから皆の代表としてね。たまってたプリントも持ってきたんだけど……」


 由佳子さんは即座に頷いたが、すぐに表情を曇らせて僕をじっと見つめてくる。訳が分からず、僕は少したじろいだ。


「に、西崎さん?」

「孝之君」

「はい」

「私は最初から『孝之君』って呼んでるんだから、そろそろ君も『西崎さん』はやめない? 由佳子でいいわ」

「え、でも……」

「『西崎さん』なんて何だか他人行儀だし、それでいてくすぐったいの。お願い」


 由佳子さんはじっと僕の顔を見つめている。僕がいつそうするかを、今か今かと待ち望んでいるようであった。


 ほんの数秒が、とてつもなく長く感じる。そんな中で、僕の口はゆっくりと彼女の名を呼んだ。


「……かこ、さん」

「何?」

「由佳子、さん……」

「はい」

「由佳子さん」

「なあに、孝之君」


 僕は自分の頬が真っ赤になっていくのを感じた。それまで女の人を下の名前で呼んだ事などなかった僕の視線は、だんだん足元へと下がっていく。無理だ、顔を上げられそうにない。


「俺、もしかしてからかわれている?」


 やっとの思いでそう言うと、彼女は小さく吹き出してから答えた。


「そんな訳ないじゃない、本心よ」

「恥ずかしいよ」

「すぐに慣れるわよ、気軽に呼んで」


 由佳子さんは僕にビニール袋を手渡した。掴んだ把手の部分が、ひんやりと冷たかった。

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