第38話

「お母さんの事はいいの」


 母が再び、首を横に振った。


「康介の為なら、お母さんはどんなに体がつらくても頑張るわ。でも、孝之は違う。あなたはまだ若いの。いつまでも康介の犠牲になる事はないのよ」

「犠牲? 何言ってんだよ、犠牲者は兄貴の方だ。俺が兄貴の人生を狂わせたんだぞ?」

「孝之……!」


 僕はそっと母の腕をほどいて、二人に背を向けた。そのまま二階の自室に行こうとした時、父の両手がテーブルを激しく叩き付ける音が聞こえた。


「どうしてお前はそうなんだ……!」


 父のそれは、やっと聞き取れるかと思えるほどに小さく震えたか細い声だった。


「何故、そこまで責任を背負う⁉ どうして家族で分かち合おうとしない⁉ 康介の面倒を見る事で、罪滅ぼしをしているつもりか⁉ そんな事は誰も望んではいない。もちろん、由佳子さんだって……!」

「そうかな?」


 僕はおかしくて、自嘲した。今の僕自身が何の罪もないなんて、どうしても思えない。僕はここまで来る為に、何人もの人の心を必要以上に傷付けてきたのだから。


「親バカもいい加減にしてくれよ。俺はそんなに立派な人間じゃない、由佳子さんも今頃きっと呆れ果ててるよ」


 それだけ言うと、僕はダイニングを後にして二階に上がった。


 階段をゆっくり登って、短い廊下を静かに渡る。自分の部屋に続く右側のドアノブを捻った時、ふいに向かいの部屋のドアの向こうから「たかちゃん!」と幼い兄貴の声が聞こえてきたような気がした。


 はっとしながら振り返るも、当然ながらそこには誰もいない。もう半年以上も主が戻ってこない向かいの部屋は母が定期的に掃除をしてくれているが、やはりもの悲しい空気がいつまでも残っていて、あの日の罪深い僕を責め続けている。


 僕はもう一度兄貴の声が聞きたくて、その部屋のドアにそっと顔を近付け、耳を澄ませてみた。目を閉じて息を殺していれば、今度は「孝之」と呼んでくれる大人の兄貴の声が聞こえてくるんじゃないかと思ったが、やっぱり何も聞こえてこなかった。


 僕はあの日の事を思い出していた。あの日、由佳子さんはどんな思いでこの部屋にいたのだろう……。

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