第21話

「ええっ⁉」


 僕は変な声を出しながら、ぱっと顔を上げる。見れば、ゲームの端末機は兄貴の手の中に収まっており、彼の顔は何故かいらだちで満ちていた。


「何すんだよ、兄ちゃん!」


 僕は素直に不満の言葉を出した。


「せっかくいいところだったのに! ゲーム返せ!」

「……さい」

「え? 何、聞こえな……」

「うるさいって言ってんだよ‼」


 兄貴は僕に向かって、そう怒鳴った。


 兄貴が僕に怒鳴ったのは、これが初めての事だった。僕の体の中を驚きと恐怖が一瞬で駆け巡り、喉の奥から出かかっていた不満の続きは行き場を無くしたせいか、僕をひどく息苦しくさせる。兄貴はそんな僕に構わず、怒鳴り続けた。


「ふざけんな! お前、俺が今どんな気持ちでいるか分かってんのかよ⁉ バスケできないんだぞ、インターハイ出られないんだぞ‼」

「……そ、そんなの、僕のせいじゃ」

「出てけよ! 何にも知らないガキが人の気も知らねえで、側でうろちょろしやがって! うっとうしいんだよ、ここから出ていけ‼」


 兄貴はベッドの上の枕を掴むと、それを思い切り強く僕に向かって投げ付ける。僕は避ける事も受け止める事もできずに、枕は僕の顔面へと直撃した。


 枕はぽさりという頼りない音を立てて足元に落ちる。僕はしばらくの間、何も言えずにその場に突っ立っていたが、やがて目尻から涙がじわりと込み上げてきた。


 別に顔面の痛みはそれほどひどいものではなかったし、鼻血が出ている訳でもない。ただ、急激に悲しくなった。生まれて初めて、しかもこれほどまでに兄貴から拒絶の言葉を浴びせられ、子供心に深く傷付いてしまったのだ。「ひっく、ひっ……」という嗚咽の声まで漏れ出し、僕はもう居たたまれなくなった。


 気が付けば、僕は逃げるように兄貴の部屋を飛び出し、家からも駆け出していた。


 僕は泣きながら走り続けた。スポーツにはおよそ縁のない小学生であった当時の僕に、あの時の兄貴のつらくて悔しい気持ちなど理解しきれる訳がない。


 でも、僕は自分の無力さが憎らしかった。自分が側にいる事で兄貴の慰めになっていると思っていたのに、彼にはそれが逆に重荷になっていたのだ。自分の惨めな姿を弟に日がな一日見られ続ける事で、さらに歯がゆさが増していたのだ。僕はそんな事にすら気付けなかった自分が情けなかった。


 僕は近所にある小さな公園に辿り着くと、その敷地内にあるベンチの一つに腰かけ、セミにも負けないくらいの大声で思い切り泣いた。走り回ったせいで額から汗が噴き出し、僕の目から流れる涙と混じって次々と足元の土に落ちては染み込んでいく。公園の中に誰もいない事も手伝って、独りぼっちの僕は遠慮なく泣き続けた。


 どれくらい泣いていただろう。ふと気付くと、自分の頭の上から何かの影がゆっくりと覆い被さってきたのを感じた。何だろうと思い、汗と涙と鼻水まみれの顔を持ち上げてみると、僕の目の前に一人の少女が立っていた。


 暑い夏の日差しが彼女の背後から照り付けていて、その逆光と涙でぼやけた視界のせいで輪郭ははっきり分からなかったものの、顔立ちはきれいに整っているような気がした。身長は母よりも若干高く見えたが、それでもまだ低い方だ。しかしさらりと伸びた柔らかそうな黒髪が実に印象的で、いつかどこかで見た事があるようなセーラー服を身に纏っていた。

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