第16話
この時、兄貴はすでに相手ゴールの一メートル手前まで走っていた。その風景を、僕は今でもはっきり覚えている。
ボールをしっかりと掴み、その目はもう一点しか見つめていない。駆ける足は力強くコートを蹴り、その体を重力から一瞬解き放つ。全身の力をフルに使い、目の前のゴールに向かって飛び立っていく兄貴の姿は、九歳の僕にはたくましい勇者のように見えた。周囲の歓声や、僕自身の呼吸さえひどくゆっくりと感じられた。
一瞬後、ドォンというすさまじい音が僕の耳に響いた。その音に驚いて息を飲んだ事で僕は我に返り、コートの中の兄貴を改めて見つめる。兄貴は、ゴールリングに片手でぶら下がっていて、彼の足元の床では先ほどのボールが二度三度弱々しいバウンドを繰り返していた。
子供の僕でも、兄貴がダンクシュートを決めたのだという事が分かり、そこで試合終了を告げるホイッスルが鳴った。兄貴達の勝利を告げる音だった。
僕の周りに座っていた人々が応援席から次々と立ち上がり、歓喜の声をあげた。当時、県内でダンクシュートを決める事ができる中学生は兄貴だけだったそうだが、彼はそんな自慢話を僕に話した事など一度もなかったし、僕の前ではどこにでもいる普通の優しい兄だった。
生まれて初めて見る兄貴の姿に僕はすっかり感動してしまい、コートの中をじっと見つめる。僕の視線の先では、兄貴がチームメイトと輪になって自分達の勝利を喜び合っていた。
ダンクシュートを決めたのがよっぽど嬉しかったのか、兄貴は満面の笑みを浮かべていたが、やがて僕が自分を見つめ続けているという事に気が付くと、仲間達の輪からそっと離れる。そして僕達がいる応援席に向かってゆっくりと近付くと、その顔を真剣な表情に変えて僕を見上げてきた。
僕は、兄貴が何故そんな顔をするのか見当も付かず、不思議に思って首を傾げる。すると、兄貴は突然大きな声で叫んだ。
「しっかり見てたか、孝之! 兄ちゃん、ダンク決めてやったぞ‼」
この時、僕はやっと理解できた。
あのダンクシュートは、兄貴が僕の為に決めてくれた一撃だったのだ。自分の応援に来てくれた弟の為にしてやれる、兄貴なりのお礼のつもりだったのだろう。それが分かった僕は本当に嬉しくて、何度も頷いては兄貴に拍手を送った。父も母も拍手していた。兄貴の言葉を聞いた周りの人々も暖かい拍手を送ってくれた。兄貴はにっこりと優しく微笑みながら、僕にVサインをしてみせた。
この頃の僕達は、自他共に認める本当に仲の良い兄弟だった。
僕も兄貴もいつまでもこんなふうでいられると、この頃はそう信じていた。疑う余地など、どこにも見当たらなかった。
そうであったはずなのに、それを壊したのは他ならぬ僕自身だった……。
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