第10話
そいつは走り去っていくバスの背中を怠そうに見送ると、つかつかとした足取りで正門をくぐる。そして手の中のハンドバッグからタバコの箱を取り出すと、その一本に火を点けようとしていた。
「
僕はそいつの名を呼ばずにいられなかった。確かに知っている顔の人間には会いたくなかったが、彼女――
火の点いたタバコの煙を深々と吸い込み、大きく吐き出してから僕に気が付いた美穂の姿は、数年前とはまるで違っていた。髪を金色に染め、それまでほとんどしていなかった化粧も派手なくらいにしっかり決め込んでいる。僕は女性のファッションについてさほど詳しくもないのだが、美穂が身に纏っているコートも洋服も、ブーツやハンドバッグに到るまで、全てがブランド物だという事くらいは一目で分かった。
「あら、どういう風の吹き回し?」
タバコを細い指で挟み、軽蔑の眼差しで僕を見つめながら美穂が言った。
「やっと大学出てくる気になったの?」
「まさか。もう少し休もうかと思ってる」
「バカじゃないのあんた、ダブリになるじゃん」
美穂はタバコをゆっくりと足元に落とすと、それをブーツの爪先でぐりぐりと踏み潰した。その時、ふんと鼻を鳴らした美穂の口端が弧を描いていたのを、僕は視界の真ん中でしっかりと捉えてしまった。
「教育実習もやらずに、ひたすら康介さんの面倒を見る……。美しいわね、兄弟愛って奴?」
「人の事が言えるのかよ。聞いたぞ? お前だって、ろくに単位取ってないそうじゃないか。毎晩遊び歩いてるって、近所でも評判だ」
「あんたのせいにする気はないわ、安心しなさいよ」
美穂は姿だけじゃなく、話し方まで変わってしまっていた。
少なくとも、昔の美穂は他人に向かって「あんた」と呼ぶような事は絶対にしなかったし、ましてや高圧的な態度を見せる事もなかった。優しくて、いつも笑顔で僕の側にいてくれた。そんな彼女をここまで変えてしまったのは、まぎれもなく僕自身だ。
「……五時限目から、講義受けるのか?」
自分の視線が足元に落ち、声も少し擦れてしまっているのが情けなかったが、そう言うのが精いっぱいだ。美穂は「まあね」と言って、ハンドバッグから再びタバコを取り出した。
「タバコ、吸えるようになったんだな」
「おかげ様で、お酒も飲めるようになったわ。でもね、いくら飲んでも酔えないのよ。むしろ、余計にイライラしてくる」
「ごめん……」
「今更、そんな言葉聞きたくないわ。自分で全部ぶち壊しておいて、善人ぶらないで」
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