第9話

大学の正門前が終点になっているバスを降りると、僕はまっすぐに大学の敷地内へと入った。


 途中で見覚えのある学生達とすれ違い、そのうちの誰かが「あっ、緒形だ」などと言って僕を指差していたが、敢えて無視を決め込んだ。兄貴の事が大学内で噂になっていたのは知っていたし、それを自分の方から掘り起こして、これ以上兄貴の名誉を傷付けたくなかった。


 学生課は大学の二階の東端に位置していた。


 階段を上っているうちにちょうど五時限目のチャイムが鳴ったので、二階に着く頃には廊下に人通りはなくなっていた。がらんと静まり返った廊下を、僕は足早に進んで学生課へと向かう。もう知っている顔の人間には会いたくなかった。


 学生課の前まで辿り着くと、すぐに受付係のおばさんに休学延長に伴う書類を申請した。するとおばさんは「あら……?」と溜め息混じりの声を発しながら、僕の顔を覗き込んできた。


「あなた確か、教育学部の緒形君よね? これ以上休学すると、単位が足りなくなるわよ?」

「構いません、一年くらい遅れても」

「それは、そうかもね」


 おばさんが書類の入った封筒を僕に差し出しながら、にこにこ顔で言った。


「緒形君なら、一年くらい大丈夫ね。若いんだから、いくらでもやり直せるわ」


 やり直せるという言葉に、僕の体は過剰反応してびくりと跳ねる。やるせなさと悔しさが一気に心の中を占めていった。


 大学なんか何度留年したって構わなかった。本当にやり直したいものは、おばさんが言うように簡単じゃない。とんでもなく取り返しがつかない事だ。だというのに、あの頃の僕はそれを何でもない事のようにやってのけてしまった、どうしようもない奴だった。


 差し出された封筒をなかなか受け取ろうとしない僕に、おばさんは「どうしたの?」と首を傾げる。それに気付いて我に返った僕は、何でもないというふうに何度も首を横に振り、慌てて封筒を受け取るとそこから逃げるように走った。


 僕の足音が、僕のすぐ後ろから追いかけてくるように細く長く響いてくる。大学の正門まで走り抜けた所で僕の体力は完全に尽き、重くなった両足がぴたりと止まった。


 これほど長い時間走り続けたのは久しぶりだった。正門の壁になまり切った体を寄り掛からせ、ぜいぜいと切れる息を何とか整えていた時、僕が降りた便より二十五分遅れの上りのバスが終点に到着したのが見えた。


 大学の正門前が終点となっているのだから、ここで降りてくる者は限られてくる。大学に勤めている者か、学生として通う者だ。そして、そのバスから一人降りてきたのは、後者の方だった。

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