第8話






「あら? 今日はもうお帰りなの?」


 いつもより手早く兄貴の体の清拭せいしきを済ませた僕が再び受付カウンターに行くと、先ほどの看護師がまた不思議そうに声をかけてきた。そりゃそうだろう、まだ昼をちょっと過ぎたくらいの時間だ。普段は面会時間終了までずっと兄貴の側にいるのだから。


「ええ。大学に行かなくちゃいけなくて」


 僕はできるだけゆっくりと言った。


「休学期間の延長を頼んで来ようと思ってるんです」

「休学?」

「ええ。もっと兄貴と一緒にいてやりたいんで」

「あの、緒形さん。無理しなくていいのよ?」


 それに対して、看護師がきゅっと両方の眉を寄せながら返してきた。


「あなたがそこまで自分を犠牲にしなくても大丈夫よ? 私達もいるし、決してお兄さんに苦痛がいかないよう、最大限のサポートをしますから」

「犠牲だなんて……そんな事、一度も思った事ないです。ただ、必然なだけですよ」


 事情を何も知らない看護師は、僕の返事にただ困惑していた。それでいい、できる事なら放っておいてほしい。僕自身、どうすればいいのか分からないのだから。







 僕の通う大学は兄貴のいる療養施設より反対側の郊外に位置している上、最寄駅からさらに十五分ほどバスを乗り継がなければならない。ましてや、お世辞にも偏差値が高いとは言えない三流大学だった。


 それでも僕がここを受験したのは、そのネックな部分が実にありがたかったからだ。


 高校時代、僕は真剣に勉学に取り組んでいた方ではなかったし、卒業後は就職するつもりだった。それなのに高校三年の夏休み直前になって突然進路を変えた時は、担任も両親も驚いていたが、より驚きを隠せなかったのは兄貴だった。


 兄貴や「彼女」と同じく高校教師になりたいと打ち明けた時、彼はぽかんとした表情のまま「マジかよ……」とつぶやくように言った。兄貴にとっては、まさに寝耳に水だったのだろう。


「今から勉強してたんじゃ、ろくな大学に入れやしねえよ。下手すりゃ、浪人生活突入だな。予備校に行く金がもったいない」


 そんな憎々しい言葉を吐きながらも、出来の悪い弟の為に兄貴は懸命になって勉強を教えてくれた。


 教師になって一年目、自分の事だけで精いっぱいであっただろうに、僕が大学の合格通知を受け取るまで、彼は決してあきらめる事も、僕を見捨てる事もなかった。三流大学とはいえ、僕が現役で合格できたのはひとえに兄貴のおかげだった。


 大学の教育学部に入ってからも、僕はそれまで以上に勉強した。サークル活動や飲み会などの遊び事には一切参加せず、講義の内容や教授連のシンポジウム、講演会の方にばかり気を取られていた。


 周囲の連中は僕の事を「堅物」「真面目過ぎる男」と噂して、遠巻きに見ているようだった。それが尊敬か羨望か、もしくは嫉みだったのかは知る由もないが、僕の心の奥深くに根強く残っていた目的や感情を知れば、彼らはきっと僕を軽蔑するに違いない。あの頃の僕は、独り善がりな目的を果たしたいが為に動いているという、幼稚で最低なエゴイストに過ぎなかったのだから。


 しかし、今ここにいる僕は、自分自身が一体何者なのか全く分からない。どす黒い暗闇が僕の心を支配していて、周囲からの視線や言葉を阻んでは追い払い続けている。


 少なくともこの半年間、僕を照らす光はどこにも見つからなかった。

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