第5話

午前十時を少し回った頃になって、僕は郊外にある少しこじんまりとした療養施設へと辿り着いた。まさかいつも乗っているバスが十五分も遅れるなんて思いもしなかった。早足で施設の入り口を通り抜け、そのまま受付カウンターの所まで行くと、最近顔馴染みになった看護師とそこでばたりと会い、「あら?」と不思議そうな声をかけられた。


「おはようございます、緒形おがたさん。珍しいですね、いつも一番に面会にいらっしゃるのに」

「すみません、バスが遅れちゃって」

「いえいえ。じゃあいつも通り、何かあったら声をかけて下さいね?」


 穏やかな声色でそう言うと、看護師は廊下の奥へと去っていく。僕はその後ろ姿に軽い会釈をすると、すっかり見慣れてしまった反対側の廊下をさらに早足で進んだ。


 ……分かってるんだ。こんなに急いで向かったところで、どうにもならない事くらい。僕が今さら何をどうしたって、この現実に変わり様がない事くらい――。


 そんな思いを振り払うかのように、僕は目指した先に見えた部屋のドアを一気に開ける。すると、まるで出迎えてくれたかのように部屋の中の空気がふわりと僕を包み込んできて、僕はみっともないくらいの錯覚に陥ってしまった。


「……兄貴?」


 分かっているのに、つい声をかけてしまう。どうして期待してしまうんだろう。もしかしたら、奇跡が起きているかもしれないって。また昔のように、名前を呼んでもらえるかもしれないって。


 だが、実際僕の目の前にいるのは、清潔なベッドの上で呼吸器やら点滴やらに繋がれて眠り続けている兄貴の姿だ。もう半年以上もこのままで、僕が体位交換をしてやらない限り、これまで一度だってぴくりとも動いてくれた事はなかった。


「おはよう、兄貴」


 ベッドに近付きながら、僕は声をかける。当然、返事はない。こう、こう……と機械的に繰り返される呼吸器の音だけしか聞こえなかった。


「遅くなってごめん。それじゃ、服と下着替えようか?」


 そう言ってから、僕は眠り続ける兄貴の胸元にそっと触れる。もうずいぶんと痩せてしまい、生気のない肌の下からごつごつとしたあばらの感触がじかに僕の手に伝わってきた。


 分かっている。だが、浅ましいほど願ってしまうのだ。罪深い僕の事はもういいから、せめてこの人だけはと。たった十年だ。それだけの間に、この人は僕のせいで少しずつ何かを失っていった。だからせめて、この人の命だけは……。


「お願いだ、由佳子ゆかこさん……」


 僕は、もうどこにもいない「彼女」に向かって言った。


「まだ、兄貴を連れていかないでくれ……!」

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