第58話





 西村茂之の朝は、非常にゆっくりだ。


 息子の雄一と二人暮らしになってずいぶんと経ってしまったアパートの部屋も古くさくなって、何だか生活音が以前よりも少し大きくなってるような気がする。それに加えて、雄一が登校に合わせて「行ってきます」なんて布団の中にいる茂之にひと声かけていくものだから、否が応でも朝早くに一度起こされてしまう。迷惑な話だ。


 雄一が登校してすぐ、まるで吸い込まれるように華麗な二度寝に入り込み、今度は昼過ぎまで決して起きない。いや、目を覚ましたところで布団から出てくる事などなく、周りに散らばっている煙草やライター、雄一が作っておいてくれていた食事や日本酒のワンカップボトルを手探りで掴み取って惰性を貪る。その後は、完全に目を覚ましたタイミングでラジオの実況中継を聞きながら、前日までにオンラインで買い占めておいた馬券のチェックを行うのだ。


 最後に日雇いで働いたのは、確か二ヵ月ほど前であっただろうか。そうなると、以前入社していた会社からの失業保険もそろそろ切れる頃合いだ。生活保護費の大半も賭け事に使ってしまっているものだから、高校生になった息子とひと部屋で住むにはとても手狭になってしまっているというのに、引っ越しすらできない。


 どこぞの気前のいい金持ちが、ヘリコプターの上からかビルの屋上から大金をバラまいてくれないものだろうか。そしたら、ここのところゴロゴロと寝てばかりでなまりきっているこの体に鞭打って、全て拾い尽くしてみせるのに。


 決してありえない妄想を繰り広げていくうちに、茂之の腹の虫が盛大に鳴り響く。ふと窓を見れば、いつの間に空は青色からオレンジ色に染め上がっていて、もうそんな時間なのかと察する事ができた。


 ああ、今日ものんびりと穏やかな一日が過ぎ去ったのだなと思いながら、茂之は視界の端にある空っぽの食器を見つめる。ブランチにしてくれと言わんばかりに作ってもらっていた雄一の食事はとっくに食べきってしまっていた。


「まだ帰ってないのか……」


 茂之の小さな独り言は、他に誰もいない古いアパートの一室ではやたらとよく響く。だから、自分の腹の虫まで響くように聞こえてきた時は、思わずちっと舌打ちしてしまった。


「早く帰ってこいや、腹減っただろ」


 そういえば昨日の晩、「これ買ってこい」といくつかのつまみの名前を書いたメモを渡したなと、茂之は思い出す。壁にかかっている時計を見て、この時間になってもまだ帰ってこない息子は、今頃スーパーかどこかにいるのだろうと思い直して、また布団の中に潜り込もうとした時だった。

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