第37話

「今日、仕事の帰りに病院に寄ってきた。真守の退院、明日に決まったぞ」


 先に食事を終えたのか、優雅な手付きで口元をナプキンで拭った後、父親がそう言った。それを聞いて、母親は持っていたフォークとナイフをテーブルに置いた後で「まあ!」と心底嬉しそうな声をあげた。


「やっと真守ちゃんが退院するの!? もう、本当に心配したんだから……!」

「事故による精神的ショックがあまりにも強かったようだからな。しかしそれも癒えたようだし、やっと安心してうちに帰してやれる。真琴、お前にも心配かけたな」

「う、ううん!」


 ぶんぶんと大げさなくらい首を横に振って、真琴は答える。そうだった。今生の家庭にも、問題は山積みだった。


 嫌でも今生の記憶が掘り起こされ、冴島真琴が弟の真守にどれだけ陰険で意地の悪い事をしてきたか、あれこれと鮮明に思い出せる。どうしてあんなに気弱でおとなしい弟に、あれだけひどい事を言ったりできたりしたのか……傷が残るほどの暴力にまで発展しなかった事だけが、唯一の救いだ。


 本当なら、こんなひどい性根の姉がいる家に戻ってきたくはないだろう。今頃、病院のベッドの中で「帰りたくない、ずっと病院にいたい……」と啜り泣いているのではないだろうか。そんな弟の姿をいとも容易く想像できた真琴は、改めて決意した。


 エンの言う通り、雄一には私が転生してくるまでの冴島真琴としての態度を貫くとしても、弟の真守君だけはそうならないようにしよう。今まで傷付けてしまった分、これからは優しい姉として接し、思い切りかわいがってあげよう。いっぱい遊んであげて、得意な料理やお菓子もいっぱい作ってあげるんだ。


 そうと決めた真琴の次のひと言は、こうだった。


「ねえ、パパ。明日の夕飯、私に任せてくれない? 真守君の退院祝いに、おいしいごはんをたくさん作ってあげたいの」


 だが、その真琴のひと言に、ダイニングにいた全ての者が大きく息を飲み、空気がざわついた。とりわけ、家族三人の食事を見守っていたシェフなど「そ、それには及びません、真琴お嬢様!」と慌てて口を挟んだ。


「真琴お嬢様のお美しいお手を汚させるような真似など、とてもさせられません! 私の料理がご不満でしたら、ミシェラン三ツ星の店をすぐに手配致しますので!」

「そ、そうだぞ真琴。いくら真守と仲直りしたいからと言っても、そこまで無理をする必要はない」

「そうよ、真琴ちゃん。その気持ちだけで、真守ちゃんもきっと嬉しいはずだから!」


 皆が皆、必死になって止めている様を見て、真琴は今生の記憶を思い出した。ああ、そうだった。今生の冴島真琴はまともに包丁も扱えないほど、料理が大の苦手だったと……。

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