第29話

「……お父さん、老けちゃったな」


 螺旋階段を降り切り、道路の向こうへと消えていった直吉の姿を見て、真琴は思わずぽつりとそう漏らした。


 うん、本当に年を取った。真琴は、前世のみなみとして二十四年間生きた分だけの父親しか知らない。あの頃の直吉はまだそんなに白髪やシワも多くなかったし、体つきだってもっとがっちりしていた。それなのに、現世を離れていた十六年で、まるで別人のように変わってしまっている。少なくともあんなふうに怒りっぽくはなかったし、その後、まるで罪悪感にでも駆られるかのように、背中を丸めて歩く素振りを見せた事など一度だってなかった。


 話は所々にしか聞こえてこなかったけど、お父さんがあれだけ怒鳴り散らした原因は間違いなくシゲちゃんにあるはず! もう、私が生きてた頃はメチャクチャ仲がよかったくせに、何をどうすれば嫁姑よめしゅうとめならぬ婿舅むこしゅうと問題を繰り広げられる訳!?


 何かひと言文句を言ってやらない時が済まないと、今生の姿の事などすっかり忘れて真琴はずんずんとした足取りで一番右端の部屋の前まで進み、勢いよく「たのもー!」と言い放った……つもりだった、が。


「ぐっ……ぐっさぁ~い!!」


 茂之がそこそこの呑兵衛であった事は前世の経験から充分過ぎるほど分かっていたはずなのに、今生ではまだ未成年の体であるせいか、いっそ清々しいと思えるほど部屋の隅から隅まで充満したビール独特の臭いに真琴は思わず鼻を押さえてしゃがみこんだ。


 嘘、嘘、嘘! マジであり得ない! お父さんったら、こんなとんでもない臭いを前にシゲちゃんに説教かましてたの!? て、いうか、さっきお父さん「この部屋の様とお前の体たらく」って言ってたけど、まさかこんなとんでもない部屋で雄一も一緒に暮らしてるって訳!?


 信じられない思いでしゃがみこんだまま、真琴が全身をプルプルと震わせていると、頭上からずいっと何かが近付いてくる気配を感じた。それと同時に「……うん? 何だよ、お前?」といぶかしむ声が酒臭い息と共に降ってきて……真琴は反射的に上を見上げた。


 その目の前には、前世で共に生きた愛する夫の何とも落ちぶれた姿があった。まだ四十歳であるにもかかわらず、全く運動をしていないと思しき体つきは直吉よりもくたびれまくり、あの頃はいつもこまめにチェックしていた髪型やひげも、これでもかと言わんばかりに伸び放題だ。


 もう何日着替えていないのか、寝間着代わりにしているらしいスウェットもよれよれになっているどころか、持ち主同様にビール臭くなってしまっている。まさに、ダメ人間ここに極まれりといった感じだった。

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