第26話
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この日、かつて娘の夫であった西村茂之の住むアパートを訪れた
茂之の事は、彼が赤ん坊の頃から知っている。親同士がとても懇意にしていたので、それぞれ同じ年に一人ずつ子供が生まれた時は喜び合ったし、家族ぐるみで一緒に育ててきたという自負もある。子供の方も、男と女という性別の違いこそあったが、思春期を迎える頃になってもずっと仲良くしていたし、やがてそれが淡い恋心から確かな愛情に変わるのはおかしくないと思っていた。この男なら、一人娘を任せてもいいと素直に思えたからこそ、結婚を許したのだ。
まさか、その大事な一人娘が親より先立つとは夢にも思っていなかったが、その時の直吉に茂之を責める気はこれっぽっちもなかった。普通なら「もっとお前がみゆきの体調を慮ってくれていれば!」とひと言くらい責めるのかもしれないが、亡くなってしまった娘の亡骸を前に「お前の分まで、絶対に雄一を立派に育ててみせるから!」と泣きながら誓っていた男の姿を目にしてしまっては、そんな恨み言などとても言えまいと思ってしまったのだ。
今はそんな十六年前の自分を「甘っちょろい事を抜かすな!」とぶん殴ってやりたい気分になっている。確かにたった一人の孫である雄一は、とても立派でいい子に育ってくれた。だが、しかし! それは決して目の前にいる男が成した努力の末の事ではないのだ!
「……何ですか、おじさん。今いいところなんですから、ちょっと静かに……おお、そうだ! そこだ、差せ差せ!!」
久しぶりに訪れたアパートの二階、一番右端の部屋。そこの玄関ドアを開けっぱなしの状態で直吉が声の限りに怒鳴るも、部屋の主である男はまるで気にしないどころか、万年床と思しき布団の上で俯せに寝っ転がったまま、片耳に差したラジオのイヤホンへと神経を集中させている。そのイヤホンから大音量で漏れているのは明らかに競馬中継の実況であり、男の手には競馬新聞、そして布団の周りにはハズレ馬券とビールの缶がこれでもかとばかりに散らばっていた。
「そこだ、そこそこ! 行け、踏ん張れ、あともうちょい……ああ、やられた~!」
どうやら寸でのところで予想が大ハズレとなったらしく、男はがくりとうなだれつつ、持っていた競馬新聞を放り出す。そして恨みがましい目でじろりと直吉をにらんできた。
「おじさんのせいで負けたじゃないっすか。今日一番の大勝負だったのに」
「何が大勝負だ。訪ねてくるたびに、同じような事ばかり言いおって。いい加減、まともに働いたらどうだ!」
ずんずんと玄関をくぐり、乱暴に靴を脱いで男の元へと近付く直吉。そんな直吉に男――西村茂之はふうっと大きなため息をつきながら、仕方なしといった体で布団から体を起こした。
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