第16話

キャストの紹介や監督の挨拶なども終わり、次はそのまま台本の読み合わせに入る事になった。


 クランクインは翌月の頭からのスケジュールとなっていて、台本もすでに決定稿として上がっている。脚本を手がけたのは、これまでも様々なドラマや映画で何本ものヒット作を生み出した超人気ライターだ。


 実際にあった誘拐事件を元に、映画のオリジナルストーリーとして、刑事と犯人の女との恋愛めいた部分もプラスされる。


 昨日、改めて決定稿の脚本全てのページに目を通した杏奈だったが、やはり感じたのは「嫌だ」という思いだった。


 杏奈が演じる誘拐犯『石井美奈子』は、若い時分はかなり自由奔放であり、数多の恋に溺れていた。映画の中では、相沢刑事と関係を持った後、誰が父親か分からない子供を妊娠するといった展開もある…。


 普通であれば、父親のコネがあったにせよ、まだ新人の枠を出ない自分がこのような難役を務める事になった現実に感謝すべきだ。


 だが、やはり嫌なのだ。


 肌の露出があるシーン。真実とも偽りとも取れる愛の言葉を囁くシーン。一夜限りとはいえ、誰にも邪魔されずに静かに深く抱き合い続けるというシーンを、見知ったばかりの男とは演じたくなかった。紘一と二人で演じたかったのだ。


 台本を掴む杏奈の手に力が入り、表紙がくしゃりと折れ曲がる。そのかすかな音に、隣に座っていた本郷 湊が気付いた。


「…どうしたの?」

「何でもない」

「何でもないってふうには見えないけど」


 池浦監督がそろそろ始めようかと皆に促していく中、本郷 湊が小声で話しかけてくる。今の自分の気持ちを知られたくなくて、杏奈はわずかに目を逸らしながら、もう一度「何でもないったら」と口にした。


「気にしないで。それより、下手くそな読み合わせしたら怒るからね」

「あぁ~…だったら、さっそく怒られるかもな。迷惑だったらごめん」


 本郷 湊はそう言いながら、何故か苦笑いを浮かべる。


 こっちの気も知らないで、何をヘラヘラと…。杏奈がそう思った時だった。


「池浦監督、ちょっといいですか」


 唐突に本郷 湊が手を挙げながらそう切り出すものだから、一瞬会議室の中がしんと静まり返った。


 鬼才として有名な池浦監督もわずかの間固まってしまっていたが、すぐに「何だ?」と返事を返した。


「何か気になる事でもあったか、湊君」

「俺との約束、覚えていただけてますか?」


 本郷 湊が言った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る