第7話

背後から聞こえてきた突然の声に、杏奈の両肩がびくりと震える。


 そのままほぼ反射的に勢いをつけて振り返ってみれば、そこにいたのはつい今しがたまで入浴でもしていたのか、デニムだけを履いた上半身裸の若い男が立っていた。


「気分はどう?もう大丈夫?」


 程よく筋肉のついた裸の上半身にフェイスタオル一枚だけをかけているその男は、紘一より少し年上のようだ。ずいぶんと背が高く、百八十は軽く超えているだろう。少し彫りの深い顔立ちではあったが、均整が取れていて、何より美しかった。


 しかし、杏奈に男の容姿や格好をまじまじと見つめていられるような心の余裕はなかった。


 それまで自分の身体にかかっていたであろう安っぽい掛け布団をかき集めるように手繰り寄せると、そのまま胸元まで隠すようにして「…あ、あんた誰っ!?」と若干震える声で怒鳴った。


「ここもいったいどこなの!?わ、私や有美に何かしたんじゃ…!?」

「え、ちょっと」

「そ、そもそも、私が誰だか分かってて、こんな所に連れ込んだの!?私はね…」

「知ってるよ。若手女優の向井杏奈さんだろ?」


 男のそんな言葉に遮られて、杏奈は思わず「え…」と身体が固まった。


 デビューしてまだ二年足らずの杏奈の知名度は、当然の事だがまだまだ低迷を辿っている。


 プライベートでショッピングや外食に出ても、さほどしっかりとした変装をしている訳でもないのに杏奈に気付く一般人はなかなかいない。


 たまに声をかけられる事はあっても「えっと、お名前何でしたっけ。たまにテレビで見るんですけど~…」などと曖昧な事を言われるだけだ。ひどい時には、他の事務所のスカウトマンに声をかけられた事もあった。


 だから、ほんのちょっとだけ嬉しくなってしまった。今のこの状況は頂けないし訳も分からないが、自分の顔と名前をしっかり一致させて覚えてくれている一般人に会うのは、これが初めてだったのだから。


「は、はい、そうです」


 一拍置いて、杏奈はどもりがちな敬語で答えた。


「女優の、向井杏奈です…」

「安心していいよ。君やそこのお友達には何もしてません。むしろ、やられたのはこっちの方だからさ」


 そう言いながら、肩をすくめて苦笑いを浮かべる上半身裸の男に、杏奈は一気に血の気が引いた。

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