第6話
「まさか本当に、ズブの素人って訳じゃないでしょ?」
有美が言った。
「監督さんも脚本家さんも納得した上で、この人を起用したんなら…どこかの劇団員とかじゃない?」
「百歩譲ってその通りだとしても、コウちゃんには遠く及ばないわよ」
それに対して、杏奈は空になったチューハイジョッキの縁に指先を押し付けるように弄りながら、おもしろくなさげに言葉を吐いた。
「もし、台本合わせの段階で超下手くそだったら…」
「だったら?」
「私、降りるかも」
「お父さんの力があっても、そんなわがままはありえないよ」
「そんな奴とのラブシーンの方が、私的にはもっとありえないから」
映画『悪魔の母性』には原作本として、誘拐事件の概要を記したノンフィクション本が存在する。
その概要に映画のオリジナルストーリーをプラスして、若年期の刑事と犯人の女が行きずり的に一夜を共にするというシーンがある。
その一夜を互いに忘れる事ができず、壮年期に至るまで共に独身を貫いていたが、次に再会した時は誘拐犯とそれを追う刑事であったという皮肉めいた運命もテーマとなっているのだ。
原作のノンフィクション本は一文字も読んでいない杏奈であったが、そんな大事なシーンを共に演じるのは、紘一であってほしかった。何が悲しくて、初めてのラブシーンをどこの誰とも分からない新人とやらなければならないのかと心底思うのだ。
「本当にもう…全部最悪っ!」
大きな声でそう怒鳴ると、杏奈は五杯目となるチューハイのお代わりを注文した。
「ん…?」
翌朝。眠気が覚めて意識が浮上してきた杏奈は、重くてだるい両目のまぶたをそろそろと開いた。
常なら、そこで最初に目に映るのは、つい最近一人暮らしを始めたマンションの自室の天井であるはずだ。
だが、杏奈が目にしたのは、自室の天井などではなかった。いったい、何がどうなっているのか…、彼女はかなり広々としたガレージ風の倉庫の一角に置かれた粗末なダブルベッドの上に寝転がっていたのである。
「え?」
ここどこ?と思いながら、杏奈はきょろきょろと自分の周囲を見回す。
服は、昨日着ていたものと何も変わっていないし、乱れた様子もない。ふと横を見てみれば、まだ深い眠りに落ちたままの有美が寝転がっていた。
「え、ちょっと待って…」
五杯目のチューハイを注文して飲んで、それからどうしたっけ?
必死で思い出そうと片手を額に押し付けた時、杏奈の耳に若い男の声が届いた。
「あ、起きた?」
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