第114話

泣くのを必死に堪えた震える声色で最後まで手紙を読み切った洋一さん。そんな彼に注目が集まった会場はほんの一時、しいんと静まり返っていた。


 そんな中、最初にゆっくりと拍手を始めたのは美喜さんだった。僕達家族と同じテーブルに着いていた美喜さんは、しっかりと壇上の洋一さんを見つめながら、口の中だけで「バカ……」とつぶやいて、大きく両手を鳴らしている。


 それに同調したのかどうかは分からないが、やがて周りの席からも大きな拍手が鳴り響き始めた。中には何をどう感動したのか分からないが、涙を流しながら拍手している若い女の人までいた。


 拍手していなかったのは、僕達家族だけだった。まさか姉への言葉を贈られると思ってなかった父は呆然としていたし、母は口元を両手で隠しながら「ありがとう、ありがとう……」と繰り返しお礼を言っている。


 僕はというと、そんな会場の空気にどんどん耐えられなくなってきた。何だか息苦しくて、居心地が悪くて、たまらなく最悪な気分になった。


 僕はテーブルの真ん中に置いてあった姉の写真を掴み取ると、勢いよく会場から飛び出した。背後から美喜さんが僕の名前を呼ぶ声が聞こえてきたような気がしたけど、とても構っていられなかった。







 会場のすぐ近くにある男子トイレに駆け込むと、僕はそこの洗面台に突っ伏し、蛇口の栓を思いきり捻った。じゃあああっと強い勢いで、蛇口から水が噴き出てくる。その音のおかげで、僕の嗚咽の声はすっかり掻き消えてくれた。


 姉さん、姉さん、姉さん、姉さん……!


 蛇口から拭き出て、洗面台から飛び跳ねてくる水滴が、僕の手と、その中にある姉の写真を濡らしていく。姉まで泣いているように思えて、僕の涙はさらに止まらなくなった。


 洋一さんの言う通りだ。僕の姉は、本当に愛情深い人だった。それでいて、とてつもないほどに繊細で臆病者だった。


 別によかったじゃないか、愛されたままで。何がそんなにいけなかったっていうんだ。


 誰が姉を責めたっていうんだ。一人で勝手に自己嫌悪に陥って、これ以上はいけない事だって決めつけて、そうする事で世界の調和を保たれたような気にでもなってたのか!? とんだ思い上がりだ、いい加減にしろ。どうして、何も言ってくれなかったんだ。どうして……。


 僕は、目の前の鏡に映っている涙でぐちゃぐちゃになった自分の顔を見た。みっともない、かんしゃくを起こした子供の顔だ。とても高校生の、17歳のそれとは思えない。


 もし、あの日。僕が姉と同じ17歳だったら。姉と全く同じ「17歳の世界」に立つ事ができていたら、あの日の姉の気持ちを理解する事ができたのだろうか。誰かを愛し、愛される事にまっすぐで、ひたむきで、怯えていたあの日の姉に寄り添う事ができていたんだろうか。あの日、僕達二人が同じであったのならば。


「ズルいよ、姉さん……」


 やかましいほどに水が噴き出る音の中、僕はつぶやく。そして、今更ながらに自覚した。あの日、僕も洋一さんや美喜さんと同じように、姉を愛していた事に。弟としてではなく。


「返してくれよ、僕の初恋」


 恨みがましく言いながら、僕は手の中にある姉の写真を見つめる。まだ泣いているように見えていたが、それはどうも嬉し泣きのようだった。

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