第109話
「……二、三日、あの子の部屋に泊まらせてくれないかな?」
そう言って、両手いっぱいの紙袋を持った美喜さんが家を訪ねてきたのは、夏休みが終わる直前の八月最後の週の事だった。
しばらくぶりに会ったものだから、あれからどうしてたのかと聞いてみたところ、どうやら正式に実家に戻る事になったという。お父さんとは相当揉めたそうだが、お互い家事と生活費を折半するという話で事なきを得たようであり、それなりにうまくいっているとの事だ。九月から新しく仕事もするという。
「ちょうどいい具合に、隣町にブランドショップができるっていうから、オープニングスタッフで雇ってもらえる事になったの。年齢がネックだとかなんとか言われたけど、私の腕を持ってすれば楽勝よぉ」
「良かったね、美喜さん」
家の中に通し、二階への階段を昇りながらそう言った僕に、美喜さんはふふんと上機嫌に鼻を鳴らす。髪もあのまぶしいほどの金色から茶色へと抑え込んでいたが、ホステスをしているなんて言ってた頃よりもずっとずっと輝いて見えた。
「ところで、どうして急にお泊まりしたいなんて?」
姉の部屋のドアを開けながらそう言うと、美喜さんは足早に中へと入って、両手に提げていた紙袋を下ろす。着替えか何かが入っているのかと思ってたけど、それはほんの一部に過ぎず、床に広げられた中身の大半を占めていたのはドレス関連の資料本とか、何かのデザインを描きまくったイメージイラストの束とか、たくさんのビーズやガラス玉、そしてワイヤー類などだった。
「え? ちょっ……美喜さん、何これ?」
「ティアラの材料」
「へ?」
「瀬川君に頼まれたの。自分の結婚式に出てほしい、その時みゆきさんの頭に飾るティアラも作ってほしいって」
そう言うと、美喜さんは散らばった資料本や材料の真ん中に向かって、どんっとこぶしを叩き付けた。近頃、すっかり気分が落ち着いて明るくなってきた母を、父が散歩に連れ出して行ってくれていたので、ちょっと助かったとほっとしたのも束の間で、美喜さんのイライラとした声はさらに続いていた。
「本っ当、無神経で仕方ないわよね、瀬川君って! そういうところが、昔から心底大嫌いだった!」
「み、美喜さん……」
「あの子が選んだ男なんだから、きっと根はいい奴に決まってるって何度も自分に言い聞かせて、あの頃を過ごしてた。でも、二人が一緒にいるところを見るのはどうしてもつらくて、何で私があの子の一番じゃないのって思っちゃうのが嫌で、ここに三人で来る事だけは絶対にしなかった。あの子が『二人とも大事だから、順番こにするよ』って言ってくれたから、ガマンできたのに……」
「……」
「あの子がいなくなった時だけは、瀬川君と気持ちを共有できたのに。一緒に同じつらさを噛みしめられる同志だって思ってたのに、何よ! あの子の事を踏み台にして先に幸せになるとか腹立たしくてしょうがないわ! だから無神経に頼まれた時、思いっきり顔面殴ってやったわよ!」
よく見れば、美喜さんの右手の指が関節の所で傷付いていた。僕は慌てて自分の部屋に行くと、ティッシュボックスを持って引き返してきた。
「ムチャしないでよ、美喜さん。これから活躍するデザイナーの手なんだから」
美喜さんの傷付いた右手に、そっとティッシュを当ててやる。すると、美喜さんの両目にうっすらと涙が浮かんでいた。
痛かったのかと尋ねたら、美喜さんは「違う」と答えた。
「瀬川君がね、言ったのよ。『結婚式の時に、きちんとけじめを付ける。一生の頼みだから、ティアラを作ってくれ。あいつの為にも、俺とみゆきの為にも、そして遠藤自身の為にも』って……」
「洋一さんが?」
「本当、バカみたい。瀬川君も、私も……!」
もしかしたらって、思ってしまった。美喜さんが、姉と洋一さんとの三人でこの部屋にいられなかったのは、ただのヤキモチとかそんなもんじゃない。もしかしたら、姉もその事に気付いていて……?
「美喜さん。もしかして、姉さんの事……」
美喜さんはそれ以上はもう何も答えず、床に広がってしまった資料本や材料をかき集めた。それから二日ほど徹夜した事で、実にきれいで美しく、オリジナリティ溢れる見事なティアラを作り上げた。
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