第108話

仏間の襖の所に来た父が、「こっちに来なさい」と言ってきたのは、それから五分と経たない頃だった。


 言われるがままに移動した僕と木下が、父の後に続いてダイニングに入ると、食卓の上には三人分の麦茶が用意されていた。一瞬、台所の方に母の姿を捜してしまった僕だったけど、「母さんなら部屋で休んでいる」と呆れたように言った父の言葉で動きを止めた。


「じゃあ、これは木下の分の……?」

「二人とも座りなさい」


 僕の問いには答えず、父は先に椅子に座る。そして食卓を挟んだ先にある二つの椅子を指差してきたので、僕と木下は慌ててそこへと腰かけた。


「ひとまず、それを飲みなさい。暑かっただろうし」


 そう言って、父は僕達の目の前の麦茶を勧める。その言葉に甘えて僕はすぐグラスに手を伸ばしたが、木下はじっと氷が入って汗をかいているグラスを見つめたまま、動こうとしなかった。


「毒なんか入ってないぞ」


 冗談交じりで、できる限り明るい口調を心がけるように父がそう言う。それを聞いて、木下は慌てて首を振っていたが、


「いえ。こんなふうに気遣ってもらえるような立場じゃないってだけなので……」

「君の本当のご両親からの誠意に対する、せめてもの返礼だと言ってもかな?」


 父のその言葉は、木下だけじゃなくて僕にとってもかなりの衝撃だった。ここ数年の父は、何かといっては会社や家の書斎にこもって仕事ばかりに打ち込み、姉の話題をする事もなく、日々を送っていたものだったから。


 僕達が驚きの眼差しを向けている事に気付いたのか、父は少し影を落としたような表情になった。


「君のお母さんは本当に義理堅い人だ。どこに住んでるかは頑として教えてくれないが、この12年間、毎月の賠償金の振り込みを一度として欠かした事がない。そのあまりにも律儀な行いに、振り込まれた金銭は一円だって使った事がない。いや、使う事ができないと言った方が正しい」

「そうです、か……」

「君は知らないのか、お母さんの居場所を?」

「私は知りませんが、木下の養父母が知ってると思います」

「もし連絡が付くようなら、私が『もうお金は結構です。家族の元に戻ってあげて下さい』と言っていたと、どうか伝えてくれないか?」


 そして、と父はおもむろに椅子から立ち上がると、木下に向かって勢いよく頭を下げた。


「いくら娘を亡くしたからといって、君のお父さんの真摯ある誠意に無下な態度を取り続けた事、本当に申し訳なかった。遺族を代表して、謝罪します」

「……っ、い、いいえ。そ、そんな……そんな事……」


 父の謝罪は、真剣そのものだった。決して木下を子供扱いせず、加害者側の関係者として受け入れている。そして何より、贖罪に全てを費やしてきた男の代理として、勇気を振り絞ってこの家にやってきた彼女に敬意を払った上で、過去のひどい態度を謝ってくれた。そんな父に添いたいと思い、僕も木下の方に向かって頭を下げた。


「木下、ごめん。それから、来てくれてありがとう」

「だ、だから、やめてってば……」


 困り果てているのか、何かが報われて嬉しいのか、それとも他の感情なのか……。どれとも分からなかったが、木下は声を詰まらせながら涙を流していた。

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