第107話

「……初めまして、生島唯と申します。生島清司の、娘です」


 さっき、父にあいさつした時とたぶん同じ文言だったと思うのに、その重みは全く違っていた。木下にとっては、まさに今この時が姉との初対面であると言えるんだ。緊張とか怖さとか、そういったものが最高潮に達しているに違いないし、きっと僕だったら耐えきれずに途中で逃げ出していると思う。勇気一つだけを持ち合わせてこの場にいる木下を、僕は今、心の底から尊敬していた。


「本当なら、父や母と一緒にこの場に来たかったんですけど、それだけはごめんなさいと言うしかできないです。でも、きっと父は直接あなたの所に謝りに行きましたよね? 許してあげてほしいとは言いませんが、でもせめて話を聞いてもらえたら、私も娘としてほんの少しだけ安心できます」

「……姉さんは、木下の親父さんをそんなに責めたりしない。むしろ逆で、姉さんの方がひたすら謝ってるかもしれない」

「え?」

「あの人……いや、用務員の吉岡さんに、少し話を聞いてきた。姉さんがいなくなった理由に、心当たりがあったみたいだから」

「……」

「聞く気があるなら、話すよ。その上で、木下が自分の父親を巻き込んだのかと怒るなら、僕がそれを受け止める。だから、どうか両親には怒らないでほしい。これ以上つらい思いさせたくないからさ」

「……」


 姉がいなくなる前にどんな思いを抱えていたのか、本当なら誰にも話すつもりはなかった。両親はおろか、洋一さんにも、そして美喜さんにもだ。だけど、ここまで尊敬できる木下を目の前にして、そうするのはあまりにも失礼だと思った。この子が望むなら。そう思ってその背中に向かって切り出したんだけど、意外にも肩ごしに振り返ってきた木下の返事は、意外なものだった。


「ううん、いい」


 そう言って、木下の首が横に振った。


「それは、大事に取っておいてあげて」

「え、でも……」

「それを知ったところで、私のお父さんがやってしまった事は変わらない。お姉さんだって帰ってこない。何も、どうにもならない」

「……」

「あ、だからって、卑屈になってる訳じゃないよ? ただ、お姉さんが最後の最後まで抱えていたものを大事に覚えておいてあげられるのが、私じゃないってだけの事」

「……僕なら、いいって事か?」

「当たり前でしょ、弟なんだから」


 木下は、仏壇に向き直った。そして上半身を曲げるように深々と頭を下げると、


「お姉さん、よかったら一緒に言いましょう? それで今はひとまず仲直りです。じゃあ、せーの……」


 ごめんなさい。


 仏間の中、木下一人だけじゃないもう一つの声が、そう言ったように聞こえた気がした。

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