第106話

「母さんを寝かせてくるから、お前はその子を仏間に。ああ、それから台所にお前の分の昼メシもあるから、食べていいぞ」


 てっきり、父は木下も生島清司同様に追い返すものだとばかり思っていた。さすがに女の子相手にバケツの水をかけたりしないだろうが、これでもかってばかりの罵詈雑言を浴びせるくらいはするかと。だが父は、ひとしきり泣き喚いてすっかり憔悴してしまった母を抱えながらそう言うと、そのまま家の奥へと行ってしまった。


 父があっさりと訪問を許してくれた事に、木下はだいぶ動揺していたみたいだった。今更ながら緊張もしてきたみたいで、「やっぱり何か持ってくるべきだった……」とぶつぶつ言っている。コンビニのおにぎり二つだけの朝食からだいぶ時間が経ってしまってるから、腹はそれなりに減っているものの、こんな木下を放って食事なんてする気分になれる訳がなかった。


「大丈夫だから、上がれよ」


 一度閉まってしまった玄関のドアを開けながら、僕は言った。


「女子高生相手に、そこまでの無茶を言うような人じゃないから」

「で、でも……」

「心配するなって。きっと大人として対応してくれる」


 そう言って、僕は先に玄関の中へと入ったが、正直な事を言えばかなり不安であった。


 幼い頃の記憶を掘り返したり、あの人の話を聞いたりして、父がこの12年間、姉の為にどれだけの行動を起こし、どれほどの感情を爆発させてきたかは分かっている。でも僕は、母のように取り乱している父の姿を見た事がないのだ。さすがに気持ちを抑えきれずに表情に出てしまう事は何度かあったようだが、それでも周りの迷惑を一切考えずに暴れたりとか、物を壊したりといった姿は一度として見た事がない。生島清司にバケツの水をかけたのだって、僕が家にいない時だったに違いなかった。


 だから、不安になると同時に一生懸命祈った。どうか僕が言った通り、大人としての対応を心がけてくれますように。木下にまで必要以上の恨みつらみをぶつけるような事をしませんようにと、何度も願った。


 木下がついてきてくれている事を背中越しに感じながら、僕は仏間へ通じる襖を開ける。相変わらず、新品に近い畳からイグサの匂いが漂ってきて、すうっと落ち着く事ができる。木下もそうなのか、僕の背中の向こうから同じようにすうっとイグサの匂いを嗅ぐ音がした。


「匂い、平気? 換気しようか?」


 僕が尋ねると、木下は緩く首を横に振った。


「ううん、平気。何だか落ち着くっていうか、安心するから」


 そう答えてから、木下は仏間の左側に位置している仏壇と向かい合う。それから、そこにある座布団の上にゆっくりと腰を落とし、鈴を鳴らした後で両手を合わせる。そして、最後に仏壇にある位牌と姉の写真をまっすぐ見据えながら一人話し始めた。

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