第105話

このまま家に帰ると言った僕に、木下が「一緒に行っていい?」などと言ってきた。今日こそは、姉の仏壇や遺影に手を合わせたいと。

 

 正直、僕は戸惑った。そうでなくても、どうしても今朝の事が頭にちらつく。あれからだいぶ時間が過ぎたが、母は少しでも落ち着きを取り戻せただろうか。父もどうしているだろう。ちらりとスマホを確認してみたが、どちらからも連絡は来ていなかった。


「今日、どうしてもか……?」


 僕は正直に、今朝会った事を木下に話した。そのついでというのも何だが、かつて生島清司がうちに来た時に父にされた事も話した。それでも、木下の決意は変わらなかった。


「バケツの水どころか、生ゴミぶつけられたって大丈夫だから」


 木下はそう言ってくれたが、せっかくよく似合っている水色のワンピースを汚させてしまうのはあまりにも申し訳なかったので、一度僕が家の中を確認して、大丈夫だと判断したその時だけという条件の下で、二人して家路を進んだ。


 もしかしたら、少し離れた道でもまだ母の奇声が聞こえてくるかもしれない。そんなふうに思っていた僕の心配は、呆気ないほど杞憂に終わった。


 家までは、あとまっすぐ何メートルか進んでいくだけだという近い距離になっても、あのけたたましい母の奇声が全く聞こえてこない。むしろセミの鳴き声以外は何も聞こえてこなくて、まさかうちのみならず近所の人達にもとんでもない何かが起こったのではないかと心配にすらなったが、玄関先が見えてきた事によってそれも払拭された。


 玄関先にはちょっとした段差があるのだが、その部分に母が腰かけていた。よっぽど暴れたのか服はヨレヨレになっていたし、髪型もすっかり乱れてしまっている。そんな格好でこの日差しの中、うなだれるように座り込んでいるので、心配になった僕は木下の隣から駆け出し、母に声をかけた。


「……母さん、ただいま。こんな所で何してんだよ」

「あ……」

「暑いだろ、早く中に入って麦茶でも飲みなよ」


 僕の声にゆるゆるとしたスピードで、母が顔を上げていく。両目はウサギみたいに真っ赤になっているし、頬にも涙の痕がかぴかぴになって残っている。なのに、目の前にいるのが僕だと分かったとたん、ものすごい勢いで両腕を伸ばしてきて、僕の体をぎゅうっと抱きしめてきた。


「えっ……ええっ!?」


 これには僕はもちろんだが、側で見ていた木下も相当驚いた。だが、母はそんな僕達の事など気に留める様子もなく、ひとしきり僕を抱きしめた後で、今度は両の手のひらを忙しなく動かして、僕の全身をチェックし始めた。


 頭のてっぺん、頬のあたり、首元、両腕、胸の周り、腰骨、両足……まるで叩くような強さでパンパンと音を鳴らしつつ、舐めるように上から下まで見つめ続ける母。何が何だか分からなかったが、木下の前でそんな事をするのもどうかと思った僕は、思わずこんなふうに言っていた。


「母さん、大丈夫だよ。僕、どこもケガしていないから」


 その時だった。それまで無言だった母が、僕の言葉を聞いた途端、ぼろぼろと大粒の涙をこぼし始めたのは。


「あ、あぁ……! ごめんね、さっきはごめんねえ!」


 そう大きな声で言うと、母は再び僕を強く抱きしめた。そして、心底安心したかのように泣きじゃくった。


「さっき、いっぱい家の中を散らかしたのに、お姉ちゃんが掃除してくれないの……! お姉ちゃんきれい好きだったのに、どれだけ部屋をノックしてお願いしても出てきてくれないのぉ! お姉ちゃんは、もうどこにもいないのよぉ……!」

「……うん」

「分かってた事なのに、ずっと前からちゃんと分かってた事だったのに……! それなのに、今までずっとお姉ちゃんの代わりにしててごめんねえ! ずっとずっと、あなたを否定してて、本当にごめんねえ! あなたまでいなくなったらどうしようって、ずっとずっとここでぇ……!」

「大丈夫、ちゃんと分かってるから」

「ごめんね。長い間、本当にごめんねえ!」


 わあわあと小さな子供みたいに泣き喚き続ける母が、一滴も血の繋がっていないこの母親がとてもいとおしくなって、僕もぎゅうっと抱きしめ返す。その事にあまりにも夢中になっていたから、玄関の向こうから父が出てきていた事にも、その父に木下がこう言ってあいさつしている事にも、僕は全く気が付かなかった。


「……初めまして、生島唯いくしまゆいと申します。生島清司の、娘です」

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