第103話

僕は五歩か六歩、もしくはそれよりもう少し多い歩数で電柱へと近付き、その人物に「木下」と声をかけた。


「えっ……!」


 何か考え事をしていたらしく、木下は電柱をぼうっとした表情で見つめていたが、僕がかけてきた声に大げさなくらいに驚いて両肩を震わせた。そして丸く大きくなった両目を電柱から離し、僕の方へとまっすぐ向けてきた。


「よう、終業式ぶり」

「どうして……」

「それはこっちのセリフだし。どうして、木下がここにいるんだ?」

「どうしてって……」


 言葉をていねいに選ぼうとしているのか、木下はほんの少しだけあごを引いて、口元をもごもごと動かしている。いつもの二つに分けた短い三つ編みをほどいて、うなじの先まで伸びた髪をさらりと下ろしているのも、水色のワンピースを着ているのも何だかとても新鮮だった。


「花束の一つも持ってこなくて、ごめんなさい。ついさっきまで出先で、急にここに来ようって思ったから……」


 ほんの少しの時間を空けた後で、ようやく口に出してきた木下の第一声がそれだった。予想していたどれよりも違っていたその言葉に僕はなかなか反応を返す事ができなくて、ついぽかんとしてしまう。それを続きを話せと促しているように捉えたのか、木下はさらに口を開いた。


「午前中は、図書館に行ってたの。夏休みの宿題、やってて」

「……へ、へえ。まだ夏休み始まったばかりなのに、真面目だな」

「そんなんじゃ。それで、お昼になったから帰ろうと思って図書館を出た少し先で、偶然、島崎君に会ったの」

「げっ」


 僕の口から、潰れたカエルのような声が出る。別に僕が何かしらの被害を被った訳でもないんだが、学校以外であんな奴と会うだなんて不幸をちょっと想像しただけでも気が滅入るというものだ。そうでなくてもあいつは、木下の事を……。


 そんな奴に偶然とはいえ、会ってしまった木下を不憫に思っていたら。


「島崎君に、また告白された」

「……は?」

「今度は、ものすごく真剣に言われて……。なのに私が何か言う前に、返事は二学期になってからでいいって、逃げるみたいにどこかへ行っちゃった。それで私も一度家に帰ってたんだけど、気が付いたら自然とここに足が向いてた」


 さっきまでとは全く質も量も違うぐちゃぐちゃな思考が、僕の体じゅうを駆け巡った。


 島崎の奴、まだ懲りてないのか。何てバカな奴なんだろうとか、木下ももっとはっきり言ってやればいいのにとか、そんなありきたりなものじゃない。何ていうか……僕の姉さんとは全く関係ない事じゃね? って感じだ。


 もしも木下が、本当の父親である生島清司の贖罪を引き継ぎ、ありったけの勇気を振り絞ってこの交差点や電柱の元に来る事ができたんだと言ってきたのなら、まだ分かる。まだ、僕の中で繋がりを見出す事ができる。なのに、島崎に告白されたからって……は? 何で? どういう事だよ?


「あの、悪い……。もっと僕に分かりやすいように説明してくれるか?」


 汗でじわりと湿っている額を抱えるようにして僕が言うと、木下は慌てて「う、うんっ……」と返事をした。

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