第98話
その男は、ずいぶんと薄汚れた格好をしていたそうだ。薄くて長めのコートを羽織っていたが、所々が擦り切れて破れていたし、古ぼけたソフトハットを被ってはいたものの、そこの隙間から漏れ出ている長髪の先々もかなり傷んでいる。ズボンや靴もボロボロだったし、コートの袖口から見えている両手は
あの人は、男の事をホームレスか酔っ払いの類かと勘違いしたそうだ。きっと酒を飲み過ぎたせいで、あそこから動けなくなっているのだろうと。
姉がいなくなった場所で
「……ごめんなさい」
突然、非常にか細く、だけどしっかりとした謝罪の言葉があの人の耳に届いた。
一瞬、「誰だ? どこから聞こえてきたんだ?」とあたりをきょろきょろ見回したあの人だったが、もうすぐ日が落ちるその交差点の周囲には自分と男以外、誰の姿も見えない。と、いう事は……あの人は再び電柱を振り返った。
「すみません、申し訳ありませんでした。本当に、本当にごめんなさい……」
やはり、その声の主は電柱の所にいた男だった。男は、その垢まみれになっているどす黒い色の両手の手のひらをぶるぶると震わせながら、それでも懸命に合わせている。そして、電柱に向かって何度も何度も土下座するような感じで頭を下げ続けていた。
「俺が、あの時もっとちゃんとしていたら。もっとしっかり、前を見て運転していたら。俺が、もっと周りに気を配る事のできる真っ当な人間であったのならば、あなたを死なせるような事には決してならなかったのに……。本当に、申し訳ありません……」
あの人の立っている位置からは男の背中と手元くらいしか見えない上、人目を気にする事もなく頭を電柱の根元にこすりつけながら謝り続けているものだから、その顔を窺う事はできなかった。それなのに、あの人は確信が持てたという。メディアでも顔写真などは公開されなかったし、裁判にも赴く事はできなかったが……この男こそが、姉を轢いたトラックの運転手である生島清司なのだと。
「そう理解した瞬間、聖人君子などではない私は、頭に血が昇ったよ」
そう言って、あの人はさらに続けた。
目の前にいるボロボロでみすぼらしい格好の男が、自分の生徒を死に追いやったのだ。僕達家族には到底及ばないが、悔しくて腹立たしくて、何よりも悲しくてたまらない。元教員にあるまじき行為だろうが、思い付く限りの暴言を浴びせてやらなければ気が済まない!
血が昇った頭でそんな事を考えたあの人は、ずかずかとした足取りで、男――生島清司のすぐ背後まで近付いた。そして、その肩を乱暴に掴むと、「……おいっ!!」とその時の自分にできる最大限の大声を出して呼びかけた。
すると。
「ひいっ!」
あの人の大声に反射的に振り返った生島清司の顔に宿ったのは、ひたすら恐怖と悔恨の感情だったという。そして、きっとあの人の事を父だと勘違いしたのだろう。ほんの数秒、あの人の顔を見つめた後、生島清司は両手と同じく垢にまみれて汚れ切った頬にぼろぼろと大粒の涙を伝わせながら、小さくか細い声で「すみません……」と言ってきたそうだ。
「大事な娘さんを、あんな形で奪ってしまって……同じく子供を持つ親として、心よりお詫び申し上げます。本当に、本当にすみません。申し訳ありませんでしたっ……!」
できるだけ体を小さくして、そのまま再び土下座を始めた生島清司を見て、あの人は頭に昇っていた血がすうっと下がっていくのを感じたという。ぼろぼろと悔やみ涙を流し続けるみすぼらしい格好の生島清司が、まるで
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