第六章

第97話

あの人が、初めて生島清司と会ったのは五年ほど前。あの交差点の、電柱の所での事だそうだ。


 その頃にはとっくに定年を迎え、うちの高校で嘱託の用務員として働き出していたあの人は、教員時代よりも淡々とした単調な毎日にずいぶんと色褪せたものを感じていたが、それでも新しい何かを始める気力も湧かず、流されるように生きていたと言っていた。ただ、敢えて一つだけ強いて言う事があるとするならば、やはりそれは姉の事だったという。


 どうして急にいなくなってしまったか、あの人も到底理解する事ができなかった。だからこそ、葬式や三回忌にも参列した。うちの事情で七回忌が開かれなかった時は、あの電柱の元へと出向き、そっと線香を手向けてくれたそうだ。それに関しては、素直に「ありがとうございます」と告げた後で。


「どういう事か、ちゃんと話してもらっていいですか?」


 僕が少し低いトーンの声でそう言うと、あの人はすぐにこくりと頷いて続きを話してくれた。


 五年ほど前のその日、あの人は仕事帰りだったそうだ。


 当時、うちの高校はちょっとだけ荒れていて、窓ガラスが割られていたりトイレの便器にゴミが投げ込まれていたりする事なんてしょっちゅうだったらしく、そのたびにあの人は自分よりずいぶんと若い教員に言われて、掃除三昧に明け暮れていたという。その日も大量に出てしまったガラス片の後始末に疲れ切った体を引きずって帰路についていたのだが、何故かふとした瞬間に、姉の事を思い出したのだそうだ。


「君のお姉ちゃんがいなくなった後も、私は定年まで教師を続けたし、嘱託の用務員としてこの高校に居続けたが、彼女のような生徒に再び巡り会える事などなかった。もし、もう一度そんな生徒に出会えたのなら、今度こそは……と息巻いていた時期もあったんだが、考えてみればそんな事など起こり得る訳がないんだ。君のお姉ちゃんは、この世でたった一人しかいないのだから」


 そう、姉はこの世でたった一人しかいない。そんな姉の心の内を知る事ができず、助ける事ができなかったと悔やんでいたあの人は、姉を思い出した瞬間に踵を返して、例の交差点へと向かった。残念ながら線香などは持ち合わせていなかったが、せめて手を合わせるくらいはしていこうと。


 そう思い、疲れ切った体に鞭打ちながらもぐるりと遠回りをし、例の交差点へと辿り着いたあの人はひどく驚いたそうだ。


 もう日が暮れかかって、交差点のすぐ目の前にある公園にも人影一つ見当たらず、行き交う車の影もない寂しい空気の中、あの電柱の根元に寄りかかるようにしてしゃがみこんでいる男の姿があったからだ。

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