第96話

「いまだに悔やむ事がある。もっとうまく言葉を選ぶ事ができたのではないかと」


 ここまで話してくれた後で、あの人は大きなため息混じりにそう言った。どれだけ時間が過ぎ去っていたのか、プレハブ小屋の窓からの日差しはより暑くなってきたような気がしていたし、さっきのんだ麦茶が額の汗へと変化して、じわりといくつもの粒になって浮き上がっている。僕はそれを拭う事もせず、あの人の顔をじっと見つめていた。


 あの人が言った。


「私がもっと、ちゃんとした言葉で導いてあげていれば。そうすれば、君のお姉ちゃんが自殺するような事は起きなかったのではないかと思わずにいられないんだ」

「……姉は、自殺したんじゃありません」


 たった三回だけとはいえ、姉が頼りに思って話しかけた人だ。きっと僕が思っているよりも、ずっといい人だったんだろう。だけど間違いは正さなくてはいけないと思い、僕はあの人にぴしゃりと言った。


「あいつに殺されたんです」

「……あいつ?」

「生島清司にです」


 僕の脳裏に、あの結審の日の事が浮かんでいく。傍聴席にずっと背中を向けたまま、ひと言も詫びの言葉を紡がなかった男の背中が。そんな奴に向かって泣きながら「人殺し」と叫んでくれた美喜さんの姿が。そして、その事に生まれて初めての憎悪を心に宿した幼い自分の姿が、ありありと思い起こされていった。


「あの時は美喜さんみたいにできなかったけど」


 僕は口を開いた。


「僕は絶対に、生島清司を許さない。どんな理由や言い訳を並べ立てたって、あいつが姉さんを奪い去った事に何の変わりもないんだ……!」


 そして、そんな事を言ってる間に、僕が脳裏に思い浮かばせていたのは……何故か、木下の悲しそうな顔だった。


 最初は、木下が生島清司の娘だからだと思った。だから腹が立つし、憎々しく思うからだと。


 だが、どういう訳か木下に対しては「そう考えているだけ」だ。心の底から湧き上がってくるというそういった感情が彼女に向けられるのかと問われると、何故か違うような気がしてならない。そうだ、どうも何かが違う。


 その何かがどうしても分からなくて、僕はうつむきながら押し黙ってしまった。どうする? どうしたらいい? 木下に対して、僕は何をどう思えばいいんだ?


 僕のそんな葛藤に気付いてくれたのかは分からない。でも、あの人は確かに「ああ、知っている」と言った。


「彼も、その事だけをとても悔やんでいた。君のお姉ちゃんや君達家族、そして自分の家族の為にも詫びなければならないと何度も思ったそうだが、結局勇気が出なくて何もできなかったと言っていた」

「は……?」

「だからこそ、私に託したのかもしれないな。あんなに大事な事を……」

「ちょっ……何、言ってるんですか?」


 あの人が何を言っているのか、さっぱり飲み込めない。彼って誰の事だ。いったい、何の事を言っている?


「何を言ってるも何も、今は彼の話をしているじゃないか。君から言い出したんだし」


 あの人は、僕をまっすぐ見つめ返しながら言った。


「あの電柱に花束を供えているのは、私だ。生前の生島清司に頼まれてね」


 あの人のそんな言葉に、僕は暑さのせいではないぐにゃりとした大きなめまいを感じてしまい、何も話せなくなった。

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