第95話
「吉岡先生。私、この間、洋一に『洋一のお嫁さんにしてくれる?』って聞いたんです」
「え?」
「そしたら洋一、『高校を卒業したら、すぐに結婚しよう。俺もお前の家族にしてほしい』って言ってくれて……」
「……」
「今日の昼休み、その事を美喜に話したんです。美喜ったら、相変わらずおもしろくなさそうな顔をしてましたけど、最終的には喜んでくれました。ウエディングドレスとかティアラのデザインは任せなさいとまで言ってくれて……」
「そ、そうか……」
かつてと同じように、あの人は「らしい事だなあ」と思ったそうだ。
この年頃の女の子だったら、誰もが最も夢見る事だろう。付き合っている彼氏からの幸せなプロポーズに、友人からの温かい祝福。そしてこれから先に訪れるであろう、一片の曇りのない幸福な己の人生を――。
いい事だ、ものすごく「らしい事」だ。
若さゆえに、幸福と同じくらい大きな
「いいのかな、本当に……」
再び、姉は言った。
「何だか、本当に幸せが止まらないんです。私のキャパなんかには到底収まり切れそうにないくらいの幸せが、次から次へと溢れてきちゃって……もう、どうしていいのか分かんなくて」
「……」
「時々、とてつもなく不安で怖くなります。いつかこの幸せが跡形もなく消えちゃうんじゃないかって。私の目の前から、この手のひらから一個も残らずなくなっちゃうんじゃないかって。そう思ったら、怖くて怖くて仕方ないんです」
そう言って、すうっと静かに宙に持ち上げられた姉の手のひらは、両方とも細かく震えていたそうだ。その、本当に怯え切った姉の様子を見て、あの人はどう言葉をかけていいのかひどく迷った。迷いに迷った挙げ句、再び「そんな訳あるか」と実に安直に言ってしまったと、悔やむように話した。
「前にも言っただろう。君は堂々としていればいい、そんなふうに怖がる必要なんぞどこにもない」
「吉岡先生……」
「君がそんなに不安なら、先生は何度だって言ってやる。君は幸せになっていい、それだけの権利も資格も持っている」
「……」
「逆に尋ねるが、君のように徳深い人間が幸せになってはいけないとのたまっている輩がいるのか? もし一人でもいるのなら、ここまで連れてきなさい。先生がビシッと説教してやるから」
そう言って、ぐっと握りこぶしを作ったあの人を見た姉は……。
「吉岡先生、ありがとうございます」
困ったように笑いながらも、はっきりとそう言ってくれたという。そんな姉に、あの人はやっと安心してくれたんだなと納得して、子供っぽい自分の振る舞いを現す握りこぶしを解いた。
それが、あの人と姉の最後の会話だった。その日から十日余り過ぎた、五月の連休最終日の昼下がりに、姉は僕の目の前から永遠にいなくなった。
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