第94話

そしてそれは、きっと姉も同じだったに違いないとあの人はそう言ってから、話を進めた。


 姉はよっぽど嬉しいのか、自分の体の前に回した両手を組み、その指先をくねくねと動かしていた。その口元はずっと緩んでいたという。


「初めての家族旅行なんです」


 姉が言った。


「四人家族になってからっていうのもあるんですけど、私にとっても人生初めての家族旅行になるんです。それまでは、ずっと母と二人だったので」

「そうか」


 あの人は胸がキュッと締め付けられるくらい、感動したという。


 僕や父と家族になるまでの母と姉は、きっと僕達なんかよりもずっと苦労してきただろう。どんなに憧れてうらやましいと思っても、我慢しなければならない時だってたくさんあった事だろう。だけど、今はもう違う。そりゃあ何でもかんでもという訳ではないが、それでも望めばある程度は叶えられる環境に身を置く事ができたのだ。それも姉がずっと求め続けていたであろう、家族という形の中で。


 嬉しいだろう、喜ばしいだろう。今から楽しみで仕方ない事だろう。担任でもなければ、数学の授業を担当している訳でもなくなった自分にこうやって話しに来てくれるくらいなんだから――。


 うるりと濡れそうになった自分の両目を逸らす事で何とかごまかしたあの人は、声が震えないように細心の注意を払いながら「よかったな」と姉に告げた。


「目いっぱい楽しんできなさい、思い出をたくさん作っておいで」

「……」

「ん? どうした?」

「あ、はい……」


 その時だった。それまで心底嬉しそうに話をしていた姉の顔に、変な影が落ちたのは。そこには、まるで「こんな事していいのかな?」と暗に言っているに近い仄暗ほのぐらさが急に入り込んできたようだったと、あの人は言った。


「どうした? 先生へのお土産なら別に気にしなくていいぞ? ゴールデンウイークが終わったら、どれだけ楽しかったか聞かせてくれれば充分だ」


 そんな気味の悪い仄暗さを払拭したくて、あの人はわざと明るく振る舞いながらそう言った。だが、姉はそんなあの人の気遣いを知ってか知らずか、かつてと同じように「私なんかがいいのかな……」とつぶやいた。


「え……?」

「私なんかが、こんなに幸せになっていいのかなぁ……」


 ふと見れば、姉の目には今にもこぼれ落ちそうな涙の膜が張り付いていた。とっさにごまかした自分が恥ずかしく思えるほど、姉のその涙は職員室の窓から差し込む夕日の光にきらきらと照らされて、きれいだったという。


 思いもしなかった急な出来事に戸惑って固まってしまったあの人に、姉はさらに言葉を続けた。

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