第93話
「お久しぶりです」
早足であの人のデスクに駆け寄ってきた姉は、何だか嬉しそうにそんな事を言ってきたという。
実際、その通りだなとあの人は思った。担任を受け持つ事もなければ、ましてや数学の授業も担当していないのだ。たったそれだけの事で、こんなにもあっさりと姉との関わりがなくなってしまったのだから、そう言われればその通りだと納得せざるを得ない。だからあの人はオウム返しのように「ああ、久しぶりだな」と返した。
「
「ありがとうございます。でも、ヤマ勘が当たっただけで、ただのラッキーですよ。……次はないと思います」
この時、姉のたっぷり間を空けた「次はない」という言葉がまさか現実のものになるだなんて思ってもいなかったあの人は、「そんな訳あるか、二学期も頑張れよ」とあっさりと聞き流してしまった。もしあの瞬間、何かに気付けていたら……と、そこまで話してくれたあの人の表情が一瞬曇ったのを、僕は見逃す事ができなかった。
「ところでどうした、何か先生に用事か?」
少し笑った後、緩んだ頬を元に戻しながら、あの人はそう尋ねた。
先にも言ったが、担任を受け持つ事もなくなったし、数学の授業も担当していない。そんな今の自分に、姉はいったい何の話をしに来たんだろうと不思議に思った。
もしかしたら、2年A組の担任である岸本先生や保健室に常任している養護教諭の
そんな事を頭の中でぐるぐる考えていたあの人の耳に飛び込んできたのは、意外過ぎると思えるほどの明るい姉の声だった。
「吉岡先生。今度のゴールデンウイーク、私達家族は二泊三日の旅行に行く事になったんです」
「……へ?」
自分の口からあれほどまでにマヌケな音が出たのは、その時が初めてだった。おそらくこれから先、あの時以上にマヌケぶりが
「りょ、旅行……?」
「はい。父が頑張って、とてもいいホテルを手配してくれました。パンフ見せてもらったんですけど、大きなテーマパークに隣接しているお城みたいなホテルなんです」
うん、よく覚えている。家族皆で二泊三日の旅行に出かけた先のホテルは、当時いろんなメディアがこぞって紹介するほど近代的で美しい外観に、こだわり尽くした部屋の内装。そして充分すぎるほどに充実したサービスを売りにしていた。おまけに国内有数のテーマパーク運営会社と提携していたものだから、事あるごとに執り行われるコラボキャンペーンも大人気で、予約一つ取るだけでもかなり大変だったろう。そんな競争率がとんでもない事になっている宿泊の予約を執念でもぎ取ってくれた父に、当時の僕は子供なりにひどく感謝したものだ。
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