第92話

あの人に、姉と長い話をする三回目の――そして最後の機会が訪れたのは、それから半年以上が過ぎた次の年度での事だった。


 その年、あの人は担任を持つ事がなく、ただの数学教師として淡々と授業をこなす日々を送っていたという。移動も職員室と各教室の間だけという単純なものばかりだったから、またどの生徒とも密接な関わりを持つ事がなくなった。2年A組も担当していなかったので、姉と廊下ですれ違う事すらなかったそうだ。


 その半年をゆうに過ぎる日々の中で、姉が何を考え、何に思い悩んでいたかまでは分からない。ただ、自分の目には何も変わらないように映っていたとあの人は言った。


「だから、いまだに信じられない気持ちに陥る事がある。あの日が、あの子との最後の会話になるだなんて、と」


 そう前置きして続きを話してくれたあの人によると、それはその年のゴールデンウイークが始まる十日ほど前の日の事だったという。


 その日の放課後、職員室で期末テストの採点にひと区切りを付けたあの人が、自分のデスクで大きく伸びをした時だった。ふいに職員室の引き戸の扉が開かれ、「失礼します、吉岡先生はいらっしゃいますか?」という声が聞こえてきた。


 期末テストの時期は終わっていたから、生徒が職員室へ入退室する事自体は解禁されていたものの、まだ採点が終わっていないテストの答案を見られるのは非常にまずい。瞬間的にそう判断した何人かの教師達は慌てて自分のデスクに突っ伏したり、整理整頓をするふりをして答案の束を隠していく。あの人も例に漏れず、みっともないほどに慌てふためきながら宙に伸ばしていた両腕をデスクの上に戻して答案や赤ペンを掻き回すように集めた。


「吉岡先生?」


 普通の教室より三倍以上の広さを持つ高校の職員室は、ぱっと見渡しただけでは目当ての教師がどこにいるのか見当を付ける事もできない。案の定、返事がなかった事にいぶかしんだであろう声の主は不思議そうにあの人の名前をもう一度呼びながら、職員室の扉の所できょろきょろと首を動かしていた。


「……は、はいっ!」


 何とか答案の束や赤ペンをデスクの片隅にあった教科書の下に隠す事ができたあの人は、急いで返事をしながら扉の方へと振り返った。あの人のデスクは扉とは正反対のずいぶん離れた所にあったので、自分でも思っていた以上の大声を出してしまったという。でも、それに反応してあの人がいる事に気付いた声の主――いや、姉はまるで花が咲き綻ぶかのように、ぱあっと明るい笑顔を見せながら「吉岡先生!」と三度みたび呼んだ。

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