第91話

「天井知らずで結構じゃないか、人間には誰だって幸せになる権利がある。君は今感じている幸せの多さに戸惑っているようだけど、それはあくまでたまたまタイミングが重なっただけだ。これから先の人生、もっといい事があるに決まってるだろ?」

「でも……、何だかズルしてるみたいな気になって」

「そんな事はない。皆、君のとくによって生み出された結果によるものだ。堂々としてていいんだよ」

「堂々……?」

「ああ。誰のものでもない、君だけの幸せを思う存分噛みしめていいんだ」

「……」

「試しに尋ねてみるが、今日一番の君の幸せは何だい?」


 あの人のその問いに、姉は弾かれたように顔を上げる。そしてじっと見つめる事、数分。真剣な表情を保ったままで、姉は「やっぱり分からないです」と答えた。


「今日もクラスの皆と一日過ごせて楽しかったし、もうすぐ美喜が差し入れのジュースを買って戻ってくると思います。このプリントまとめたら図書室で待ってる瀬川君……じゃなくて、洋一と一緒に帰ります。そのまま家まで送ってもらったら、きっと母が出迎えてくれると思うんです。今日の夕飯は、私の大好物にしてくれるって言ってましたし。それから」

「それから?」

「弟が、『お姉ちゃん、一緒に遊ぼう』って言ってくれるんです。父も一緒に遊んでる私と弟を見て、嬉しそうに笑ってくれて。これらの一つ一つが本当に嬉しくて、いとおしくて、たまらなく幸せなんです。どれも選べないし、かけがえのない今日一番の私の幸せです」

「……そうか」

「はい、吉岡先生」


 嘘もごまかしもない、まっさらできれいな姉の笑顔に、あの人はまぶしさを感じたという。ここまで誰かに感謝の意を持ち、自分に与えられた幸せを少し申し訳なく思いつつも、確かに享受する事ができているとてもいい子だと。何も成し得る事などないと思っていた教員生活の中で、こんな生徒に出会えたのは初めてだったし幸運だと、あの人は目に見えない神様って奴に感謝したそうだ。


「大事にしなさい」


 あの人が言った。


「君の幸せを形作っているのは、決して君だけではないんだから」

「はい」


 姉が返事をしたのと同じタイミングで、美喜さんが差し入れのパックジュースを抱えて1年A組の教室に戻ってきた。美喜さんは作業の手を止めてあの人と話し込んでいる姉を見て、「ちょっと~?」と怒っているのか呆れているのか分からない声を出したそうだ。


「もう! 私も手伝うから、さっさと済ませて、早く瀬川君と帰っちゃいなさいよ!!」

「あはは、そうしようかな……。でも安心してよ、美喜。こうして初の共同作業してあげてるでしょ?」

「プリント綴じじゃ、お店って雰囲気出ないし!」


 そんな文句は言いつつも、結局美喜さんは最後までプリント閉じを手伝っていって、そのまま教室で別れた。そして姉は、閉館時間ギリギリまで図書室で待っていた洋一さんと一緒に、昇降口の方へと向かっていった。


「どっか買い食いしていくか?」

「いいわね。じゃあ、商店街の中のたこ焼き屋さんなんてどう? 新メニューできたんだって」


 楽しげにそう言う二人の背中に、あの人は「まっすぐ帰るんだぞ~?」と教師らしいセリフを吐く。二人は同時に振り返って、「はい」といい返事をしていたそうだが、きっとどこかに立ち寄るだろう事をあの人は分かり切っていた。それが、最も「らしい事」なのだからと。

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