第89話
そんな姉とあの人が再び話をする機会が訪れたのは、それからしばらく経った頃の事だった。
その日、クラスごとに配られる学級通信のプリントのまとめを任される事になった姉は、放課後の1年A組の教室に一人残った。通常であれば、学級委員は男女一人ずつ選ばれ、二人で様々な作業に取り組むところなのだが、この日は男子の学級委員が風邪をひいて休んでいたらしく、姉が二人分こなさなければならなかったという。
どんっと机の上に山積みにされたプリント達をページごとに一枚ずつ引き抜き、それをまとめてホチキスで留める。実に単純な作業ではあるものの、姉一人だけにやらせてしまうのはあまりにも不憫だと考えたあの人が少しでも手伝ってやろうかと教室に出向いてみれば、窓から降ってくるオレンジ色の夕日に照らされながら、姉は黙々と作業に勤しんでいた。
ここで、あの人は姉に声をかけるのをためらったと話した。どうしてですかと尋ねたら、その時の姉の顔がとても印象深かったからだと言う。じゃあ、どんな感じだったんですかとさらに尋ねれば、あの人はこう答えた。「一人で、微笑んでいたんだ」と。
それは、もうすぐ地平線の向こうに沈んでいってしまうオレンジ色の夕日のせいなのか。それとも、一人っきりでいる教室の中だという独特の寂しさをものともしない強い何かを姉が持ち合わせていたからなのか。どうしてなのか全く答えが分からなかったが、それでも姉は儚くも美しく、そして優しい微笑みを讃えながら、延々と作業を繰り返していた。
まるで高尚な絵画を見ているようだと、あの人は少しの間押し黙って見つめていたという。だが、教室の入り口で、大の男がいつまでも棒立ちで突っ立っている事に気が付かない姉ではない。ふとした拍子に顔を上げ、そちらの方を振り向いてあの人に気が付いた。
「あ、吉岡先生」
「あ……よう、頑張ってるな」
「はい。量が多くて、まだ半分もできてませんけど……」
姉からしてみれば、とっくに職員室へと行ったはずのあの人がどうしてまた教室に戻ってきたのか不思議で仕方なかっただろう。小首をかしげながら「どうしたんですか?」とすぐに尋ねてきたものだから、あの人はずいぶん返事に困ったらしいが、さんざん考えた末、正直に答える事にした。
「君が、微笑んでいるのを見ていた」
「え?」
「ずいぶんきれいに笑っているものだから、声をかけそびれていたんだよ」
「何ですか、それ」
ぷっと小さく吹き出すようにして、姉が手に持っていたプリントとホチキスを机の上に置く。その際、例のブロマイドカードもお守りのように姉の手元に添えられているのが見えて、あの人はどこかほっと安心した。
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