第87話
「よかったな。まあ、なかなか頻繁にという訳にはいかないだろうが、会える時は目いっぱい遊んでやりなさい」
「……? 何を言ってるんですか、吉岡先生?」
姉はまた、ほんのちょっと首をかしげて、あの人を見上げた。その不思議そうな眼差しに、あの人は姉と自分の会話がどこか食い違っているかのような違和感に、すぐ気付いたという。あの人は、それを確かめたくて姉に尋ねてみた。
「ど、どうした? 先生、何か間違っていたか? 何せ
「いいえ、そんな事はないんですけど」
姉は首をふるふると横に揺らす。そして少し考えるような素振りを見せた後で、「あ、そうか!」とパンッと両手を合わせるように打ち鳴らした。
「私の言い方が悪かったです。あんまり嬉しすぎて、肝心な部分を
「ああ、いやいいよ。それで?」
「母がお見合いしたんです。4歳の男の子連れの男性と」
「え?」
「その人と母はずっといい雰囲気でしたし、私もこの人達ならって。それに私、ずっと兄弟が……特に弟が欲しいって思ってたんで、嬉しくて嬉しくて仕方ないんです」
そういう訳で、近日中に名字が変わりますと、本当に心底嬉しそうに言ってくる姉の言葉を、あの人は呆気に取られながら聞いていた。
少しも嫌がらないのだなと、思ったという。
あの人の見解ではあるものの、姉くらいの少年少女であれば、誰もが通る多感で難しい年頃の真っ最中だ。ましてや姉は、物心つく前から母親と二人だけの家庭を築いてきて、いろんな事を乗り越えてきただろう。そこへ見も知らぬ男とその子供が突然入ってくる。つい少し前まで他人だった者が、戸籍上の家族として自分と関わりを持つ事になるのだ。拒絶、嫌悪、面倒臭さ、その他諸々の感情が姉を悪い方向へ歪ませやしないものかと、あの人はずいぶんハラハラしたというが。
「その弟となる子が、本当にかわいらしくって! まさに私の理想の弟像なんです! お父さんになる人も紳士的だし、お母さんも一人でもう苦労しなくていいんです!」
まるで親友にでも話すように、姉は次から次へと言葉を紡いでいく。ああ、そうだ、思い出した。確かこの子には、遠藤という名の仲のいい女子がいたじゃないか。名字も変わる事だし、遠藤にもすでに話したのだろうか。
もうすぐ予鈴も鳴る。このひと言を最後に話を切り上げよう。そう考えたあの人は、「分かったよ。諸々の手続きは今度親御さんと交えて済ませるから、君は早く校舎に。話の続きは遠藤さんとしなさい」と言った。ところが。
「美喜には、まだ話してません。吉岡先生が初めてです」
と、姉は言った。あの人は、自分の息がヒュッと鳴った音が聞こえたという。
どうしてそんな繊細な話を最初に聞かせるのに、自分という取るに足らない存在を選んだのだろう。担任だからか? いや、それならば、わざわざ予鈴が鳴りそうなタイミングを見計らって、校舎から出てくる必要性は全くない。朝のホームルームが終わった後でも、昼休みでも、何なら放課後でだっていいはずだ。生徒達に人望が厚い優秀な教師であったのならば
「どうして?」
あの人は、心からの疑問を姉にぶつけた。
「どうして先生に、最初に話してくれたんだ?」
「どうして、ですか? それはですね」
姉が何度目かの笑顔を見せながら、こう言ったものだとあの人は話してくれた。
「吉岡先生ならちゃんと私の話を聞いて、今の私の気持ちをずっと覚えてくれるだろうなって思ったからです」
「今の、君の気持ち?」
「私、今ものすごく幸せなんです!」
それじゃあ、話を聞いてくれてありがとうございましたと軽く会釈をして、姉はあの人の前から走り去っていく。あの人は姉の姿が校舎の昇降口の中へと消えていくまで、ずっと見送っていたそうだ。そして、どのタイミングで予鈴が鳴ったのか分からなかったが、この日も姉は無遅刻無欠席の記録を更新した。
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