第86話
あの人は、とても不思議に思ったそうだ。
元気よくあいさつしてきた姉は学生カバンも何も持っておらず、真っ白できれいな両手を前に組むようにして立っていた。と、いう事は、あの人が門扉を閉めに来るよりずっと前に登校してきて、一度は校舎の中にある1年A組の教室に入ったという事だ。
それなのに、どうしてわざわざ外に出てきて、自分にあいさつしてきたのだろう。少なくとも一学期の間に、そういう事はなかった。それどころか、姉と個人的なやり取りすらない。声を覚えていたのだって、姉が1年A組の学級委員であり、よくロングホームルームの中で様々な議題の司会を務めていたからという事以外の理由はないのだ。
姉はほんのちょっと首をかしげて、あの人があいさつを返してくれるのを待っているようだった。それにはっと気が付いたあの人は、少し慌てながら「お、おはよう」と言った。
「おはようございます」
あの人がようやく反応してくれたのが嬉しかったのか、姉はにこりと微笑んでもう一度言った。とてもかわいらしく、きれいな笑顔だったそうだ。あの人はそれにほんのちょっとだけ和んだ気持ちになりながらも、頬をすうっと垂れていく汗を拭いながら姉を諭す為に口を開いた。
「だけど、もうすぐ予鈴が鳴るぞ? せっかく遅れずに来ているのに、教室にいなかったら遅刻扱いになってしまう。さあ、早く行きなさい」
「……」
「どうした? 学級委員の君がいないと、示しが付かないだろ」
これまで無遅刻無欠席であったはずの姉の努力を、自分のような教師とちょっと話をしていただけの事で潰させてしまっては本当に申し訳ない。そう考えたあの人は、一瞬でも早く姉が教室に戻っていく事を願ってそう言ったのだが、対して姉は先ほどの生徒達のようにほんのわずかも焦る様子など見せる事なく、きれいな笑顔を保ったままで切り出した。
「……吉岡先生! 私、弟ができたんです!!」
「え?」
「ずっと欲しかった弟ができたんです!!」
力いっぱい、心底嬉しそうにそう言ってくる姉に、あの人は「あの時は本当に驚いたよ」と何度も言った。
担任である以上、当時の姉の家庭環境に関してはきちんと頭に入っていた。確かこの子は、母親と二人きりの母子家庭だったはずだ。もしかして、母親と別れた夫の男が誰かと再婚して、腹違いの兄弟が生まれてきたという話なのだろうか。
まあまあ複雑だし、他人が無遠慮に踏み込んでいいはずのない類の話ではあるが、この子にとってはとても嬉しい事なのだろう。それ以前の問題として、彼女もまだ年若い高校生だ。嬉しさのあまり、そんな事にまで思い至るのは難しいのかもしれない。
それでも彼女や、弟となる子にとっては少なからず喜ばしい事には違いないと考えたあの人は「そうか」と答えて、ひとまず祝福する事に決めた。
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