第85話
「……吉岡先生! 私、弟ができたんです!!」
あの人が姉にそう話しかけられたのは、13年前の9月。二学期が始まって間もない頃の事だった。
あの人は、ひどく驚いたという。そりゃあ数学担当の教師で、担任を務めていた1年A組の授業も受け持っていたから、どこか分からないところや質問を投げかけられた時には当然答えるくらいの事はしていたが、元来口下手な性格で愛想を振り撒けるような器用さもなかったあの人は、クラス全員の名前と顔はしっかり覚えていても、さほど密接な関わりを持ってはいなかったそうだ。
こんな自分は、どうせどの生徒からも好かれてはいまい。これまでも懐いてくれた者など一人もいなかったし、これからだってきっとそうだろう。誰に覚えられる事もなく、そうやって定年まで静かに教員としての務めを果たした後は、のんびりとした隠居生活を送ろう。早くに奥さんに先立たれ、子供もいなかったあの人は、いつもそんなふうに考えながら日々を過ごしていた。
あの人は、そんな自分に姉が話しかけてきてくれた日の事をよく覚えていた。まだ夏の名残も厳しいよく晴れた日の朝の事で、校門の戸締り当番だったあの人は、朝のホームルーム開始の予鈴が鳴る前に門扉へと近付いていった。
まだ校門のあたりでは、のんきに登校してくる生徒達が大勢いた。中には必死の形相で自転車をこいでくる者も数人ほどいたが、大半がゆっくり歩きながら大きなあくびをしていたり、友達とぺちゃくちゃしゃべっていたりと予鈴の事など全く気に留めていない様子だった。
「お~い、もうすぐ予鈴が鳴るぞ! 急がないと門を閉めるからな!」
生徒達の様子を見かねて、あの人は彼らしからぬほど精いっぱいの大声で呼びかける。すると、のんきに歩いていた生徒達の顔色が一気に変わり、門を閉じられてはたまらないとばかりに一斉に校舎へ向かって走り出した。それをちょっと嬉しく思いながら門扉の側に立ったあの人は何度も「おはよう」「おはよう」とあいさつしたが、焦って走り抜けていく生徒達にそんな心の余裕などあるはずがなく、誰一人として「おはようございます」と返してこなかった。
寂しくないと言えば嘘になるが、もうすっかり慣れっこになったものだなあと、あの人は自嘲めいた笑みを浮かべる。そのまま腕時計を見てみれば、予鈴が鳴る数分前を差していたし、ちょうど門扉の周りには生徒も誰一人いなくなっていた。
よし、門を閉めて早く職員室に戻ろう。今日は一時間目から1年C組の授業が入っていて、小テストを行う予定だ。昨夜仕上げておいた机の上のテスト用紙の確認も済ませておかないと――。そんな事を思いながら、あの人がスライド式の重い鉄製の門扉に両手をかけた時だった。
「吉岡先生、おはようございます」
背後――すなわち、校舎が建っている方向から聞き慣れた声がそうあいさつしてきて、あの人は肩ごしに振り返った。そこに立っていたのが、姉だった。
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