第83話

「ありがとうございます、助かりました」


 グラスをすっかり空に戻した僕は、心からそう言った。手のひらの中のグラスは、まだひんやりと冷たい。それを見ながら、あの人はおかわりはどうかと勧めてくれたが、ひとまず首を横に振って断った。


「大丈夫です、このグラスも冷たくて気持ちいいし」

「そうかい?」

「グラスも冷やしてるんですね」

「ああ。この冷蔵庫には冷凍機能がないからね、氷が作れないんだよ」


 苦笑しながらそう言うと、あの人は腕を限界まで伸ばして冷蔵庫の扉を何度か撫でる。僕はそれを目で追ってから、改めて小屋の中をぐるりとひと通り見渡した。


 クーラーがないから、この暑さのせいで若干空気がぬるい気もするが、扇風機のおかげでそれも大して気にならない。冬はどうするのだろうかと一瞬気になったが、それも流し台の横に隠れるようにして置かれてあった小さめの電気ストーブを見つけた事で納得した。


「……まさか、ここに住んでるんですか?」


 それなりに環境が整っている小屋の中を見て、ついそう口に出してしまったが、あの人はぷふっと空気が抜けたような笑い方を一度してから、「そんなはずないだろ?」と返してきた。


「ここは職員用の宿直小屋だよ。まあ、先生方はほとんど使っていないようだから、少なくとも夏休み中は私専用といったところになるが」

「……」

「今日はどうしたんだい?」

「え?」

「確か部活に入っていなかっただろう? 私服で学校に来るなんて、何かあったのか? それに、いつも何だか様子も違う」

「違うって……」

「一学期の間はいつもひどくイラついていたように見えたが、今は逆というか、悲しそうに見えるよ」

「そんな事は」

「ないとは言わせないぞ? その証拠に一学期の時みたいに私に突っかかってこないし、えらく殊勝になってるじゃないか」

「そ、それは……」


 僕はグラスを両手で握りしめながら、あの人から目を逸らすようにうつむく。そして、こうなってしまっている言い訳を必死に考えた。


 じりじりと日差しが暑くなってきた中、こうしてプレハブ小屋の中に招き入れてくれて、麦茶を振る舞ってくれたり扇風機の風に当てさせてくれたりしてるのだ。これで一学期の時みたいな態度を取り続けていられるほど、僕だって恩知らずな訳じゃない。それに――。


「あの、先生に聞きたい事があって」


 少し時間を空けてしまったが、それでも何とか意を決する事ができた僕はグラスからぱっと視線を上げて、あの人の顔を見つめた。初めてあの人を先生だなんて呼んだから、やたらと声が震えてしまったのが何とも恥ずかしかったけど。


「聞きたい事?」


 あの人が、また不思議そうに首をかしげる。僕は一つ頷いてから、「姉の事で」と切り出した。

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