第82話

「まあ、これでも飲んで。外は暑かっただろう?」


 横並びに設けられている校舎とグラウンドからほんの少し離れた、焼却炉とは逆方向の脇にある中庭。そのさらに隅の方に小さなプレハブ小屋があるだなんて、この高校に一年と数ヵ月通い続けていたのにちっとも知らなかった。


 まあ、中庭といってもさほど広い訳ではなく、噴水のような物が付いているこぢんまりとした池と、それをぐるりと取り囲むようにベンチがいくつか置かれているだけの場所だ。お世辞にも手入れが行き届いているとは言えず、池には緑色のコケがびっしりと生えていて鯉の一匹もんでいないし、ベンチだって誰も使っていないだろうからペンキが剥げてあちこち朽ちてしまっている。


 そんな中庭をあの人の後について突っ切り、ドアの鍵を開けて通されたプレハブ小屋の中は意外にもものすごくきれいに整頓されていた。


 大した物こそないが、それでもちゃぶ台やガスコンロに流し台、さらには小さな冷蔵庫なども常備されていて、小屋というよりはもはや住居に近い機能をちゃんと果たしている。床の端の方にはていねいに畳まれている布団が一組あったから、それにもずいぶん驚かされた。


 ドアの所で靴を脱いだあの人は、そんな小屋の中を慣れた様子ですたすたと歩いていき、冷蔵庫の前で屈みこむ。そして、その中から麦茶の入った大きなペットボトルと空のグラスを取り出すと、とくとくと注いでから僕の方を振り返ってそう言ってきた。


「え?」

「ほら。冷たくてすっきりするぞ、こっちに来なさい」


 グラスをちゃぶ台の上に置いて、あの人が手招きしてくる。そういえば、駅のホームでおにぎりと一緒に飲み込んだお茶以降、何も水分を口にしていなかった。


 正直、夏の暑さに喉がだいぶやられている。誘惑に打ち勝つ事などできるはずもなく、僕は「お邪魔します」と軽く会釈してから、あの人と同じようにドアの所で靴を脱ぎ、小屋の中へと上がった。


「おかわりはたくさんあるから、遠慮なく飲みなさい」

「……はい、いただきます」


 ちゃぶ台を挟んであの人の正面に座ると、僕は目の前の麦茶の入ったグラスを掴んだ。早くもグラスの表面に張り付いていた結露の細かい水滴が、熱を持っていた僕の手のひらを心地よく冷やしてくれる。それがたまらなくて素早くグラスを唇に付ければ、わずかな甘さが残る麦茶特有の香ばしい苦みが一気に口の中へと広がっていった。


「おいしいかい?」


 夢中で飲んでいく僕の姿にほっとしたのか、あの人がそう言いながら自分の側に置いてあった古い型の扇風機を僕の方へとずらし、電源のスイッチを押す。ぶうんと大きな音が一度しただけで、扇風機は適度な風量を保ちながら、僕とあの人を間を行ったり来たりしてくれた。

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