第56話

保坂先生の前では「まだちょっと」なんて強がってみせたけど、実は結構、わき腹の痛みが強く残っていた。もちろん折れてるという事はないんだろうが、島崎が苦しまぎれに当ててきたわりには、やっぱりそれなりにダメージを食うものだったんだなと呆れた。


 島崎には絶対内緒にしてやる。調子のいいあいつの事だから、聞いたらきっと格闘家の道に進んでみようかなとか言い出すに決まってる。そんな島崎の顔なんか見たくなくてどんどん先を進んでいたが、階段を降りきったところでズキンと大きな痛みがわき腹から襲ってきて、僕はほんのちょっとの間動けなくなった。


 そのほんのちょっとの間に、父が追いついてきた。父は階段の手すりにつかまって少し前屈みの体勢になっている僕に気が付くと、背後からそうっとした手つきで僕の肩を支えるように触れてきた。


「大丈夫か?」

「うん、平気」


 ここで僕はまだ強がってみせたが、この体育着の格好のままでは説得力はゼロに等しい。かといって、着替える為に教室に戻るような気力も同じくらいなかった。


 そんな僕の気持ちを読み取りでもしたのか、父が僕の肩を支えたまま「着替えなくていいのか?」と尋ねてきた。


「カバンも教室に置きっぱなしだろう?」

「いい、もう面倒くさい」

「その格好で帰ったら、母さんが驚くぞ。その右手の包帯だって隠しようがないだろ」

「……母さんには、僕がケンカしたなんて言ってないんだろ?」

「ああ、言ってない」


 父がこくりと頷くのが、気配で伝わってきた。


「緊急連絡先は、父さんの携帯にしてあるからな。母さんは、父さんが今ここに来てる事すら知らないさ」

「何で?」

「母さんは、この学校には来ない方がいいからな……」


 父がそう言い終わってから、僕ははっと気が付いてしまって、ほぼ反射的に振り返る。すると視線の先には、ずいぶんと困った様子の父の顔が目いっぱい広がって見えた。


 姉さんの事がケンカのきっかけだったというのに、すっかり失念してしまっていた僕はバカだ。今の母がこの学校に来れば、どのような混乱の波が襲ってくるか分からないというのに。下手をすれば、姉がいなくなってしまってから数日の間の頃と同じくらいのパニックに陥った挙げ句、延々と奇声を発して暴れ続けていたかもしれない。


「ごめん」


 僕はぷいっと父から視線を逸らして、謝った。


「母さんには、体育の時間にバランスを崩して転んだとでも言い訳しとくよ」

「ああ、それがいい。今日は自転車も置いていけ、父さんの車で帰ろう」

「うん」

「気にするな」

「あと、もう一つごめん。ケンカのきっかけだけは、どうしても話せない」

「ああ、分かった。そこまで言うなら、聞かないでおくよ」


 優しい声色で父はそう言ってくれたが、僕の肩を支えてくれている両手の力は少し強くなったような気がした。少しだけ分厚くて、ゴツゴツと固い手。デスクワークばかりしているのに、それでもこんなに頼もしく思えるのかと、僕は父の手に安堵した。

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