第四章

第55話

「……この度は、息子が大変ご迷惑をおかけしました。申し訳ございません」


 放課後。保健室に待機させられていた僕の目の前に慌てて駆け込んできたのは、意外にも父だった。この時間なら家にいるんだから、てっきり母が来るものだと思っていたのに。まだ体育着の格好のままだった僕は、そう言いながら養護教諭の保坂ほさか先生に頭を下げる父の姿をぼんやりと見つめていた。


「お、お父様、どうか顔を上げて下さいっ」


 この学校に赴任して二年目らしい保坂先生は僕達生徒との方が年が近い。そのせいか、こういう場合はどう対処するのか最善なのか、そのコツがまだうまく掴めていないようで、頭を下げ続ける父を前にあたふたとするだけだ。そんな保坂先生をこれ以上困らせたくなくて、僕は「父さん」と声をかけた。


「もうやめろよ。保坂先生の方が泣きそうな顔してるだろ」

「そ、そんな事ないよ。君の方がケガ痛いでしょ!?」


 僕の言葉を聞いて、初めて自分が目に涙を浮かべている事に気付いたのだろう。保坂先生が乱暴に目元をゴシゴシと拭った後で、僕の右手に視線を落とす。そのこぶしには大げさなくらい包帯でぐるぐる巻きにされていた。


「おなかの方は大丈夫?」

「まだちょっと痛いですけど、たぶん動けないくらいじゃないです」

「そう。痛みや痣は数日続くと思うから、両方消えるまで体育はお休みしてね」

「はい」

 

 ちゃんとした病院で診てもらった訳じゃないから確実な診断をされた訳じゃないけれど、どうやら僕の右手のこぶしにヒビが入ったとかそんな事はなく、少し傷めた程度で済んだようだった。島崎の額だってあれほど強く殴り付けてやったのに赤くなっただけで、たんこぶもできなかったらしい。


 どうせこんなふうに叱られるのなら、島崎の鼻っ柱を狙ってやればよかったと僕が思ってる中、保坂先生は父に事の敬意を細かく説明しているようだった。父は真剣な表情でそれらを聞き取り、島崎やその親にも謝罪したいと言い出したが、お互いに大きなケガをした訳でもないし、クラスメイト同士のちょっとしたケンカで必要以上の厳罰が処される事もあり得ない。本人達には反省文を書かせるという罰を与えてありますので、と保坂先生が少し早口で言った。


「……ですので、もうお気になさらないで下さい。島崎君の親御さんもケンカのきっかけを作ったのはうちの息子なんだから、むしろこっちの方が申し訳ないとおっしゃってましたし」

「きっかけ?」


 まずいと思った、この場であのケンカのきっかけを父に知られるのは。


 僕は腰かけていた保健室のベッドから素早く立ち上がる。足をやられてなくて、よかった。


「父さん、帰ろう」

「えっ……いや、だがな?」

「親が迎えに来たら、もう帰っていいって担任から言われてるし」


 僕はすたすた歩いて保健室のドアを開ける。そのままさっさと廊下に出てしまうと、後ろの方から父が慌てて追いかけてくる足音が聞こえてきた。

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