第54話

「うるさいな」


 僕は言ってやった。


「島崎には関係ない」

「何だぁ、美化委員のくせに」


 また島崎の口から、訳の分からない言葉が出てくる。僕が美化委員だから何だ? 美化委員のくせに、俺が狙っている女を横取りするなとでも言いたいのか? そんな単純な発想しか出てこない島崎がある意味うらやましかった。


 僕と島崎の間に流れる空気がだんだん険悪になっていくのが分かってきたのか、他のクラスメイト達やB組の男子達の視線がさらに集まってくる。これ以上はもっと面倒な事になりかねないと思った僕は、早々にこんなバカバカしい話を切り上げたくてせっかくの物陰から腰を上げざるを得なかった。なのに。


「そんなに気になるなら、さっさと行動に移せばいいだろ。いちいち女々めめしいな」

「何だと、偉そうに」


 偉そうなのはどっちだよと、僕がため息を吐きながら島崎をちらりと見た時だった。奴の右手に、信じられない物が握られていた。


「お前だって、こんな女の写真持ち歩いてんじゃんか。女々しいのはどっちだって話だよな?」


 島崎の右手にあったのは、生島清司の定期入れだった。わしづかむように持っているので、ただでさえ年季の入っている定期入れは角の方からくしゃりと折れ曲がり出していて、中に入っている姉の写真もわずかに歪み始めている。ついさっきまで、これは生島清司の持ち物だからと思っていた僕の気持ちが、あっという間に真逆のベクトルへと向かっていった。


「お前が先に教室出て行った時に、机から落ちてたから拾ってやってたんだけどよ。こういう女が好みだったんだな」


 あっひゃっひゃと、ずいぶん下品な笑い方をしながら島崎が言う。その言葉が、そのたった数瞬が、姉をこれ以上なく汚されたような気になった。


「こんなもん持ってんだから、お前だって行動に起こせてないって事だろ。いや、むしろこれってストーカーに近くねえか? 隠し撮りっぽいし」

「……」

「気持ち悪いんだよ、マジで。そういう奴が俺の恋路の邪魔すんなって」


 そう言うと、島崎はわしづかんでいたままだった定期入れを振り上げたかと思ったら、そのまま力任せに体育館の床に叩き付けた。思いの外、パシーンという甲高い音が体育館中に響き渡り、その場にいた全員の体を硬直させる。


 そして何より、その音は僕の頭の中であの日のフラッシュバックを起こさせた。


 お気に入りの公園まであと少しだった、交差点の横断歩道は赤だった。「もう、いいや……」と呟いた、姉の細い声。僕の手からするりと抜け出ていってしまった、姉の真っ白できれいな手。そして、僕の目の前で悪魔の咆哮のように響き渡った姉の体を引き裂く音。知らない女の人の悲鳴――。


 かっと、頭に血が昇るのを自覚した時には、僕はもう島崎の首元を掴んで押し倒していた。


「よくも……! よくも姉さんを傷付けたなぁ!!」


 さっき島崎が定期入れを振り下ろしたのと同じように、僕も右腕を大きく振り上げてこぶしを島崎の額めがけて叩き付けた。初めての感触だったが、痛いと思う事はなかった。


 続けざまにもう一度と思ったが、島崎だってただでやられるようなお人好しじゃない。不利な体勢にいる中でも左手を振り回して、僕の脇腹にこぶしを叩き込んできた。一瞬息が詰まったような気もしたが、構わずにさらにもう一度試みようとしたところで、慌てて駆け付けてきたクラスメイト達に体を掴まれ、そのまま島崎から引き離された。


「てめえ、美化委員のくせにいい度胸だ! かかってこいよ!」


 先手を取られた事がよほど悔しいのか、マヌケなくらい額が真っ赤になっていた島崎がB組の男子達に押さえられたままの状態で僕を煽ってくる。僕もそれなりに興奮していたので自分でも訳の分からない事を口走りながら応じようとしたものの、結局そのままずるずると体育館から追い出されてしまった。

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