第53話

「前に木下狙うなって、俺は確かに言ったよな?」


 全くもって、何の脈絡もなく島崎はそう言ってきた。以前のように、僕の口から「は?」と短い音が出た。


 いきなり何の話だ。全然、意味が分からない。よほど機嫌が悪いのか、島崎はこめかみあたりにうっすらと流れ落ちていく汗を拭いもせず、腕組みをして僕を見下ろしている。そんな僕と島崎を何人かのクラスメイトの男子が遠巻きに見ているようだった。


 大体、今は木下の名前なんて出さないでほしい。こっちは今日一日、ずっと姉の面影を見つけられなくてしんどい思いをしているというのに。ああ、そうだ。あの定期入れも、放課後になる前にさっさと木下に返してしまおう。姉の写真が気にならないといえば嘘になってしまうが、ずっと生島清司が持っていたものだと思えば執着心も薄れるというものだ。


「何の話か分からないんだけど」


 島崎の口から出る意味不明な話に付き合うつもりはないという意思表示も込めて、僕は盛り上がり始めたコートの方に視線を戻す。だが、諦めが非常に悪く、無視される事をとことん嫌う島崎はさらに僕に突っかかってきた。


「とぼけんな。ずいぶんいい性格してるじゃねえか、前に俺が言ってた事覚えてるくせによ」

「本当に、何の事だよ」

「ふざけんな。じゃあ、何で今日一日、木下がずっとお前の事ばっか見てたんだよ!?」

「は?」


 本日二度目の、短い音。確かに島崎の席の位置からなら右の肩越しにちょっと振り返れば木下の席が、反対に左を振り返れば僕の席が見えるだろうけど……。


「……いやいや、何だよそれ」

「それはこっちのセリフだって話だよ」


 島崎のサイズが合わなくなりつつあるジャージの足が、ずいっと僕に詰め寄ってくる。反射的に身を引いたが、すぐに体育館の板張りの壁に背中がぶつかって動けなくなった。


 ああ、面倒な事をしてくれたと、僕は木下を理不尽に恨んだ。島崎のような奴は一度思い込んだら、それを解きほぐす事なんてほぼ不可能に近い。きっと木下としては今朝のやり取りが気になって、何とかもう一度僕と話す事ができないかと機会を窺っていたところだったんだろう。それをこいつときたら、何をどう勘違いしたのか想像するのはそう難しくない。


 だからと言って、本当の事を話してやる気は全くない。島崎に姉の事を話してやれるような価値は微塵も見受けられないし、何の意味もない。大体、そんな事をすれば木下が……。


 あれ? 今、僕は何を思った? 何でここで木下の事を気にかけた? 美喜さんだって、あんなに怒ってたじゃないか。どんなに戸籍を変えたところで、木下は生島清司の娘だ。僕から姉を奪った男の娘なんだぞ。それを、どうして……。


「おい、聞いてんのかよ!?」


 また上から偉そうな口調の島崎の声が降ってきて、それにはっと我に返った僕はすぐさまじろりとにらみ上げてやった。

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