第51話

今日は移動の必要がある授業が五時間目の体育しかなかったから、午前中はずっと2年A組の教室の中にいたけれど、いつものように姉の面影を探す心の余裕は全くなかった。


 例えば一時間目の現代文の授業だったら、姉は自分から挙手とかして、『この文章に対する作者の意図を答えなさい』という問題を完璧なまでに口にするだろうなとか。三時間目の数学とか四時間目の英語もそうだ。誰よりも素早く黒板に答えを書き出して、「先生、できました」ってちょっと照れ臭そうに微笑みながら言うんだろう。そんな姉を、クラスの皆が「すっげー!」とか、「頭いい~」とかものすごく分かりやすい褒め言葉と一緒に拍手して称えるんだ。その中には洋一さんや美喜さんもいて……。


 いつもだったら、こんな空想なんて簡単に思い浮かべられるんだ。限りなく現実に近いものだっただろうから、2年A組のどこを見渡しても簡単に姉を捜し出す事ができた。なのに今日は全然ダメだ。姉がいない、見つける事ができない。きょろきょろと首を動かす事さえままならない。


 最初は、朝のルーティンをすっぽかしたせいかと思った。いくらあのユリの花にちょっとビビったからって、一瞬でも早く学校に行って木下と話をしなくちゃいけないと思ったからって、最も優先しなくてはならない姉の存在をほったらかしにしたせいだ。だから姉が拗ねているのではないかと思っていたのだが、昼休み、朝に食べ損ねたコンビニのおにぎりを母の弁当と一緒に食べようとした時、机の中からこぼれ落ちてきた定期入れを見て、はっと思い出した。


 きっと肌身離さず持ち歩いていたんだろう、姉の写真の他には何もない生島清司のその定期入れは本当にボロボロだ。元はこげ茶色の皮張りだった物が、かどはすっかり擦り切れて丸みを帯びているし、端の方は留め糸ががほどけて何ミリかだらりと垂れている。本当ならつるつるとした手触りだったんだろうが、所々が剥げているせいで指先がざらりと嫌な感触を撫でる。それなのに、中に収めてある姉の写真は全く傷んでいなかった。


 切り取ったものだろうから、少し長方形っぽい大きさになっていて収まりにくかっただろうに、姉の写真にはシワも汚れも一切ない。色褪せさえなかったので、今にもその写真の中から飛び出してきてくれそうなくらい、あの頃の姉がきれいに写っている。ああ、分かった。これを見てしまったせいだと、僕は直感した。


 どんな手段をもってこの写真を手に入れたのかは知らないが、生島清司がこれを死ぬ直前まで大事に持っていたという事を僕は知ってしまった。そのせいで、自分が思っている以上に動揺してしまってる僕は、朝のすっぽかしたルーティンの件もプラスして著しく調子を落としているのだ。


 だって、そうだろう。姉がいなくなってしまった最大の原因を作り上げた男が、僕の知らない笑顔を見せる姉の写真をずっと持ち歩いていたんだ。どういうつもりなんだと問い詰めたいのは山々なのに、その本人はもうこの世にいない。木下に問いただしたところで「分からない」と首を横に振られるのがオチだ。それがひどいもやもやを生んで、僕の目にいつもの姉の姿が映らなくなってるんだ、きっと。


 その事がもどかしくて、ずっとイライラしていた僕はいつも以上に周囲の目を気にしていなかった。だから、木下が事あるごとに僕の方を見ていたのに、全く気付く事ができなかった。

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