第48話

あの人が校門前に来たのは、それから本当に間もなくの事で。彼は俺と木下の姿を見ると、何故か安心したみたいにほうっと長い息を吐き出してから「おはよう」とあいさつしてきた。


「おはようございます」

「……」


 木下はていねいに頭を下げながら言葉を返したが、僕は首をほんのちょっと倒しただけで済ませる。他に誰か来る前に話を済ませなくちゃいけない事ばかり考えていたから、ずいぶん不愛想な顔もしていただろうに、あの人はそれを全く気にする様子も見せずに「今日も一日頑張って」と言って、重い校門の門扉をゆっくりと押し開けてくれた。


 そこをさっさとくぐり抜けて、駐輪場に自転車を停めた僕達は、そのまま足早に2年A組の教室へと向かう。僕達しかいない校舎の廊下はよく晴れた太陽の光を窓から目いっぱい吸い込んでいて、つい数時間ほど前まで立ちこめていたであろう夜の不気味な雰囲気を払拭していた。


 そういえば中学二年の時、修学旅行の予行演習という名目で許可をもらい、クラス全員参加の下、学校の体育館でお泊まり会をした事がある。そして就寝時間直前になって誰が言い出したか、肝試しで校内を散策しようという流れになってしまい、あらかじめ決まっていた行動班ごとに懐中電灯一本で真っ暗な校内を歩き回るはめになった。その時、一緒の班になっていた男子の誰かにこう言われたのを覚えている。


『……お前、何でそんなに平気そうな顔してんの? 怖くねえのかよ』


 そいつがあまりにも怯えた声と表情でそう尋ねてくるものだから、面倒になった僕はその時だんまりを決め込んだ。でも、もし今、もう一度同じ質問をされたら、きっと僕は迷う事なく「怖くなんかない」と言える。姉を失ったあの日以上に怖かったものなんて、僕の中には存在しない。そのはずだった。


 なのに、僕より早く昇降口を抜けて廊下に出た木下は、ちょっと遅れた僕を待つ事なく、夜の雰囲気が消えてすがすがしい朝の光を纏う廊下をさっさと進んでいく。僕はそんな彼女の後ろ姿を見失わないように急いで後を追いかけるが、僕より確かに細くて弱々しく見えるその背中になかなか追い付く事ができない。おかしいな。木下も確か帰宅部のはずで、決して陸上部とかそういった体育会系の部活などやっていないのに、どうしてあんなに足が速いのだろう。


 もうすぐ曲がり角に差しかかる。その先は階段になっているので、2年A組の教室に行くにはそこを昇るしかない。そう分かっているのに、木下の足がその曲がり角に向かおうとした瞬間、何故か僕は異様なほどに焦った。もう二度と木下の姿を見る事が叶わなくなるような、そんなありえない事を考えてしまったからだろう。


「木下!」


 僕は足音を立てながら廊下を駆け、曲がり角の向こうに消えかけていた木下の肩に向かって腕を伸ばし、思いきり掴んだ。その瞬間、「いたっ……」と小さく声をあげて僕の方を振り返ってきた木下は、ずいぶんと弱々しい表情をしていたが。


「……大丈夫」


 自分の肩を掴んできたのが僕だと分かると、ほんのわずかに唇の両端を持ち上げた。


「逃げも隠れもしないから」


 そう言って、再び前を向いて木下は目の前の階段を昇り始める。この時、僕の手から木下の肩がすり抜けていった感触は、あの日の姉の手のそれとよく似ているような気がした。

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